表紙

3 捕獲作戦


 ゴルトベルガーがひどくおびえて、連絡係をするのは死んでもいやだと言い出したので、しかたなくカトリーヌは翌日の出勤時に、街角の公衆電話ボックスに入り、コインを取り出しながらハンドルをぐるぐる回して、受話器を耳に当てた。
  交換手の金属的な声が聞こえてきた。 心臓が口から飛び出すのではないかと気遣いながら、カトリーヌは上ずった声で頼んだ。
「軍の本部、お願いします」

  声は別の交換手に代わった。 おそらく軍本部の職員なのだろう。 いっそうきびきびして近寄り難い雰囲気だった。
  それでもカトリーヌが名乗り、出てほしい相手の名前を言うと、間もなくノワイエ大尉の声が聞こえてきた。
「ここに直接連絡してはだめだ」
  予想したとおり冷たい調子だ。 でもカトリーヌにかまっている時間はなかった。
  とっさに甘い声を張り上げて、カトリーヌは芝居を始めた。
「ごめんなさい、あなた。 だって声を聞きたかったんだもの。 そんなにそっけなくしていいの? 私だって、あなたが考えるほどもてないわけじゃないのよ。 すてきな人に誘われちゃったんだから」
  とたんに電話の向こうが熱を帯びた。
「奴が現れたのか?」
  カトリーヌは受話器を持つ手を替え、いっそう思わせぶりになった。
「うふん、焼ける? いい男なのよ、それが。 黒い髪で、背が高くて、ビロードみたいな声をしてるの。 嘘じゃないわ」
「それで、どこで会う?」
  今や大尉の声は上ずっていた。 相当な大物らしい。 カトリーヌはどきどきしながら演技を続けた。
「すごいのよ。 あの『オラクル』なんだから。 ほら、一流でしょう? しかも正式タイム、午後8時よ!」
「でかした!」
  大尉の声があまり大きかったので、思わずカトリーヌは受話器を耳から離した。
「バカにしてるわね。 そうでしょう。 私にはあなたしか見えないなんて思ってるでしょう。
  いいわよ、そういう態度なら。 ほんとに会いに行っちゃうからね。 後悔しても遅いわよ!」
  当時の電話はすべて交換手に聞かれていた。 秘密を話せる機械ではなかったのだ。 その上、万が一あの美男スパイがカトリーヌを調べるために尾行していることもあり得る。 これは命がけの任務だと、ゴルトベルガーの怯え方を見て、カトリーヌは実感していた。
  ぷんぷんしたふりをしながら電話ボックスを出たとき、カトリーヌの手はじっとりとしめっていた。

 あんな美男に誘われた娘は、ふつうどうするだろう。 有頂天になって時間より早く駆けつけるんじゃないだろうか。
  そう考えたカトリーヌは、8時少し前に、いくらか野暮ったく装って『オラクル』に着いた。
  男爵令嬢だったころの経験が役に立った。 物怖じしないで見回している姿から判断したのだろう。 ボーイがすっと近づいてきて丁重に尋ねた。
「お待ち合わせですか?」
  カトリーヌがうなずくと、ボーイはすぐに空いている席に案内し、椅子を引いて座らせてくれた。
  男は少し後に、きちんとした薄い灰色の服で現れた。 そのスマートな様子を見たとき、カトリーヌはいぶからずにはいられなかった。 こんなに目立つ男がスパイだなんて本当なのか。
  カトリーヌがちゃんと席に着いているのを見て、男は少し驚いたようだったが、それでも端麗な顔が微笑に崩れた。
「やあ」
  カトリーヌも微笑んで首をかしげてみせた。
「ほんと、いいお店ね」
「そうだろう? 君の気に入ると思ったんだ」
  さわやかに言いながら、青年は椅子に座った。 優雅な動作だった。
  カトリーヌの方に身をかがめて、彼はやさしく言った。
「僕はロベール。 ロベール・シモン。 スイスの生まれだ。 君は?」
  カトリーヌは考えて、店で名乗っている名前にしなければまずいと気付き、小声で答えた。
「カトリーヌ・オーヴ。 ポーランド系なの」
  ロベールと名乗った青年は、楽しそうだった。
「いい名前だね。 カトリーヌと呼んでいい? じゃ、僕もロベールと呼んでくれ。
  さてと、何を頼もう。 ここは魚料理がうまいんだよ」
  愛らしく顔を上気させてみせながら、カトリーヌは内心気が気でなかった。 ノワイエ大尉はどこにいるのだろう。 このままあやふやな芝居を続ける自信なんてない。 女優じゃないんだから。 早く来てこの人をつかまえてよ、とカトリーヌは必死で願った。
  そのとき、思わぬ邪魔が入った。 偉そうな顔をした警官がボーイの制止を振り切って不意に現れて、不審尋問を始めた。 ロベール・シモンではなく、カトリーヌに、だ。
  どうも東欧的な顔立ちの彼女に偏見を抱いているらしく、言いがかりとしか思えない尋問だった。
「君、身分証明書を出して」
  そんなもの、あるわけがない。 カトリーヌは体を硬くした。
「あの……」
「ここはいかがわしい酒場じゃない。 男を引っかけるなら法律違反だから逮捕するぞ」
  カトリーヌが怒ってナプキンを叩きつけるのと、ロベール・シモンが立ち上がって警官を殴るのとがほぼ同時に起こった。 たちまち店内は騒然となり、人々が次々にテーブルから立ち上がった。
  ロベールは素早くカトリーヌの手を取り、人だかりを抜けて外へ出た。 彼の手は、まるで大理石の像のように冷たくて硬かった。 鍛錬を積んでいる手、たとえば空手とか襲撃技などで鍛えている手だ。 カトリーヌは初めて心からの恐怖を覚えた。
  そのとき、何人もの足音が背後から近づいてきた。 誰かが必死に走ってくる。 神様、ノワイエ大尉でありますように、と、カトリーヌはぎゅっと目をつぶって祈った。
  とたんに突き飛ばされた。 眼を閉じていたから誰がやったかわからない。 次いで銃声が響き、また走りすぎる音がした。
  街灯の横にはじき飛ばされて、カトリーヌはもがいて立ち上がろうとしながら、通りのかなたの暗がりに目をこらした。 かすかに男たちの乱闘している姿がちらついたような気がしたが、はっきりしない。 やがて呼子が吹き鳴らされ、その音も遠ざかっていった。



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