表紙

月とアルルカン エピローグ


 由比ガ浜をしばらく散歩し、ベンチでサンドイッチの詰め合わせを分け合って食べた後、二人はゆっくりと予約したペンションに向かった。
 胸が詰まるような感じがして、足元がどうも定まらない。 どちらもさっきまでのように気軽に声が出せず、自然と無口になった。
 斜め後ろから夕陽が追ってくる。 冬を脱したこの季節、光は温かみを増し、柔らかいオレンジ色に染まっていた。 長く伸びた影を道連れにして、二人はぎりぎりまで身を寄せ合い、黙々と歩いた。


 あれから始終デートはしていた。
 世間並みの、映画とか遊園地とかいうのじゃない。 時間の許す限り会って、話をして、時には黙って寄り添って……。 それで毎日が満たされていた。
 どうしても会えないときは電話した。 短くとも、声を聞けばよく眠れた。

 素敵な恋をしていることを、今では家族も認めてくれていた。 兄の幸隆は、一ノ瀬が大学の後輩なのが嬉しいらしい。 ボーッとしたおまえに町工場のかみさんができるのか? と憎まれ口を言いながらも、ときどき車を貸してくれたりした。


 チェックインして三号室に入り、最初に感じたのは爽やかな木の香りだった。
「檜〔ひのき〕だ」
 一ノ瀬も印象的だったらしく、北と東の壁を覆った木質の壁材をしげしげと眺めた。
「懐かしいな。 うち、昔は檜風呂だったんだ。 改築して直しちゃったけど」
 一ノ瀬の家でも、瑠名は婚約者同然の扱いを受けていた。 しかし、風呂場まで入ったことはない。 そう考えると、なんだか瑠名は頬が熱くなった。
 シングルルームはサイドテーブルと小さな衣装箪笥つきで、細めのベッドが行儀よく二台並んでいた。
 瑠名の表情が緊張でだんだん硬くなるのを、一ノ瀬は気付いていて、さりげなく傍に寄って髪に触れ、優しく撫で下ろした。
「先にシャワーどうぞ。 俺待ってるよ」

 部屋着は、藍の地に白い折鶴の模様のついた浴衣だった。 パリッと糊がきいている。 ここって旅館とホテルの中間みたいな雰囲気だ、と思いながら、瑠名は念入りに拭いた体に浴衣をまとい、紐を結んだ。 指が妙に言うことをきかなくて、一度失敗した。
 入れ違いにシャワー室に入った一ノ瀬は、すぐ出てきた。 夕陽はすっかり海に落ち、部屋は天井の四角い灯りとサイドテーブルのラウンドスタンドとの二重照明で、複雑な影を床や壁に投げていた。
 一ノ瀬は、壁のスイッチを下げ、主照明を消した。 すると、薄暗い部屋の中で二つのベッドにそれぞれ半円形の光が滲み、童話の世界のように見えた。
 それから、一ノ瀬は大股で、窓の近くに立つ瑠名に歩み寄り、全身で抱きしめた。
「瑠名が好きだ」
 強く胸に押しつけられたまま、瑠名はできるだけ大きくうなずいた。 一ノ瀬は首を下げて瑠名の肩に額を載せ、どこかが痛いかのように顔を歪ませて目をつぶった。 何かに耐えているようなその横顔が、瑠名にはひどく美しく思えた。 手を持ち上げて、額から頬、引き締まった顎まで指をすべらせると、胸の奥が震えて、泣きたいような気持ちが襲ってきた。
 顎が固まって、うまく開かない。 ようやく出てきた声は、自分でもわかるほどか細かった。
「大事にされたいなって思ったことはあるけど」
「うん」
「大事にしたいって男の人に思ったのは、初めて」
 頬が重なった。 浴衣が落ち、かすかな音を立てて床に広がった。
 むきだしになった肩を唇がたどった。 そのまま胸に降りていき、なだらかな曲線を描いた脇腹に押し当てられた。
 部屋がゆっくり回って、天井が目に入ってきた。 彼の手がやさしく動き、体の奥を熱く燃えたたせた。 瑠名の呼吸が早まった。
「ねえ」
「なに?」
「これでいいの? 私ばっかり大切にしてもらって」
「いいんだ。 二人ともよくなきゃ、いい夜にならないだろ?」
「でも……なんか不思議な気持ち……体がよじれるみたいな」
 とたんに全身が火のようになって、瑠名は目を見開いた。
「どうしたの私……?」
「大丈夫」
 一ノ瀬が上半身を伸ばし、汗のにじんだ瑠名の額を手のひらで拭った。
「かわいい! どうしてこんなにかわいいんだろう」
 激しく唇を吸われると同時に、体が重なってきた。


 その夜、瑠名は一ノ瀬の引き締まった胴にしがみつくように、ぴったりと寄り添って眠った。
 もう離れたくなかった。 彼は頼もしくて、熱くて、素晴らしかった。
 莉亜は瑠名とちがって経験豊富だ。 一ノ瀬の男性としての魅力を見抜いて、取り上げようとしたのかもしれない。 今になって、瑠名はそう悟った。
 彼は私のだもの、と、瑠名は莉亜に心の中で宣言した。 すると、圧倒的な幸福感が体全体に広がって、苦しくなるほどわくわくした。

 眠りの国に引き込まれる寸前に、顎にキスすると、目を閉じたまま一ノ瀬は微笑んだ。 少年のような、陰りのない笑顔だった。




〔終〕




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イラスト:アンの小箱
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