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44 一族で集って



 枯れかかった下草をカサカサと踏みしだきながら、足音はどんどん近づき、やがて乱れた金髪の頭が見えた。
 向こうも、すぐロザリーを発見したらしい。 とたんに動きが速くなり、あっという間に岩まで来た。 そしてすぐ前に立つと、さすがに息を切らしながら、かすれの入った声で言った。
「よかった! またどこかへ行ってしまったのかと思った」
 ロザリーは膝に手を重ね、首をわずかにかしげて、目の前のレイモンを見つめた。
「どこにも行かないわ。 ここはこれから私の家になるんだもの。 そうでしょう?」
 心細さが、つい最後の問いになって出た。 それがレイモンにはすぐ伝わったのだろう。 急いで妻の横に座り、抱き寄せて胸に押し付けた。
「そうだとも。 ここが君と僕の家だ。 他の者は住まわせない。 短期滞在だけだ」
 熱く抱きしめられても、ロザリーの体は強ばったままだった。 なかなか緊張が解けない。 こんなことではいけないと思いつつも。
「執事がオリアーヌの悪口を聞いていたんだ。 かわいそうに。 もっと早くアンリエットの話をしておくべきだった」
「アンリエット? それが元の婚約者の名前?」
「そうだ。 おてんばな明るい子でね」
 大きな手が、肩に垂れ落ちたロザリーの金糸のような巻き毛を撫でた。
「パリで知り合って、好きになった。 でも後でわかったんだ。 彼女は兄の娘だってことが」


 言葉にならないほど驚いて、ロザリーは顔を上げた。 目を合わせたレイモンの表情は、悲しげというより、むしろ人生の皮肉を噛みしめているようだった。
「わかったときは衝撃だったよ。 兄は自分に隠し子がいることさえ知らなかったんだからね。 僕もひどい気分だったが、アンリエットは本当に真っ青だった。 同情したよ」
 どう言ったらいいか迷いながら、ロザリーはやっと二言三言口にした。
「あなたも、辛かったでしょう?」
「うん」
 レイモンは正直だった。
「しばらくは足の裏を火であぶられてるみたいだった。 いてもたってもいられなかったし、何にでも腹が立った。
 そのうち、今度は落ち込んだ。 気力がなくなって、すべてに興味が持てなくなった。
 特に、女性にね」
 彼の頭がうつむき、ロザリーの胸に額が埋まった。
「このまま坊さんみたいに一生を送るのかと思っていたとき、君に逢ったんだ」
 手のひらが、ロザリーの背中を上下に撫でさすった。
「で、僕は生き返った。 おおげさだと思うかい?」
 反射的にうなずいてしまって、ロザリーは慌てた。 だがレイモンは怒らず、妻の背中に置いた手に、いっそうの力を込めた。
「でも、これが本当の気持ちなんだよ。 君は僕を笑わせてくれたじゃないか。 覚えてる?
 あのときまで二年以上、僕はずっとむっつりしていた。 でも、やたら正直で愉快な君を見ていると、忘れていた笑いが不意に出てきたんだ」
 ロザリーの呼吸が、少し楽になった。 でもまだ、完全に彼の言葉を信じているわけではなかった。
「また人を好きになれたのか、半信半疑だった。 それでも目の前がパッと明るくなって、君を逃がすまいと思った。
 君が警戒してるみたいだったから、いちおう先に帰らせて、そっと後をつけていって家を確かめようと決めていた。 それが君のほうから誘ってくれるなんて」
 丸くなったレイモンの肩が揺れた。
「僕の気持ちが伝わったんだな。 そうだろう?」
 ロザリーはどう答えたらいいかわからなかった。 それでも胸の奥がちくちくと、痛いようなむずがゆいような気分になってきた。
「私がたまたま道にいたから、付き合ったんじゃないの?」
 レイモンは顔を伏せたまま、うなった。
「とんでもない。 たまたま出逢った女性は、あの一年だけでも君の前に何十人もいたよ。 中には僕が金持ちだと知っていて、偶然にみせかけて近づいてくる人もいた。 だから君が思っているより、僕は目が肥えているんだ」
 これでロザリーの不安と悲しみは、あらかた吹き飛んだ。


 間もなく、二人は腕を組んで丘を降りた。 玄関の前には大型馬車と荷馬車が並んで停められ、大きく場所を取っていたが、レイモンは見向きもせず、妻を愛しそうに抱きよせたまま、正面から入っていった。
 オリアーヌたちは結局、荷造りに手間取って夕方までに出発できなかった。 するとレイモンは東棟の一番遠い客室に、姉と小間使いを移した。 予想した通り、オリアーヌは怒ったが、レイモンは無造作に言い返した。
「普通の家族なら歓迎しますよ。 でも僕のいない間に来てしまい、妻の権限を奪おうとする人は迷惑です。 ところで、明日は帰れますよね?」




 半年後、プロヴァンスに領地を持つレイモンの兄、ダルニー伯から招待状が届いた。
 伯爵と再婚相手との子供クリストフが無事に三歳を迎えるので、誕生祝を兼ねて親戚たちを招きたいというのだ。
 今やブールギニョン伯爵夫人としての日常に慣れ、地主の妻として地道に小作人たちと交流し、ファブリスを一生懸命育てる毎日を送っていたロザリーは、久しぶりに自信がぐらつき、レイモンに泣き言を言った。
「できればあなた一人で行ってほしい。 ここでは肩のこらない社交しかないから、やっていけるけど、格式の高い旧家のお兄様一家と、どうお付合いすればいいの?」
「何の心配もいらないさ」
 レイモンはまったく平気だった。
「兄は、その気になれば堂々と振舞えるが、本当は僕以上に地味な人だ。 それに後妻の奥さんは……まあ余計な先入観は持たないほうがいいな。 ともかく全然君が心配するような夫婦じゃない。 歓迎してくれるよ。 大丈夫」


 短くとも数週間の滞在になるので、ファブリスは置いていけない。 それで負担が少なく速い汽車の旅を選んだ。 車両を一つ貸し切りにして、荷物や土産をたくさん運ぶことが出来た。
 駅にはダルニー伯爵の部下が、馬車で迎えに来ていた。 何度も足を運んで、待っていたという。 レイモンとロザリーはほっとして礼を言い、元気な息子と世話係りのマドと四人で乗った。


 到着したのが正午前だったため、暖かい色の壮大な屋敷の全景が、近づくにつれてよく見えた。
 そして門を入ると、芝生と花壇の入り混じった前庭に椅子やテーブルが持ち出され、数人の男女と幼い子供たちが楽しそうに遊んでいるのがわかった。
 馬車を見て、芝生に寝転んで幼児を持ち上げていた男性が立ち上がり、子供を抱いたままやってきた。 そして、ロザリーと息子を馬車から下ろしたばかりのレイモンに近寄ってきて、大きく抱き合った。
「よく来てくれたな。 ずっと会いたかった」
「兄上も元気そうで」
「兄上?」
 黒っぽい髪の上品な男性は、首をそらして笑い、レイモンの肩を叩いた。
「もうそんな他人行儀な呼び方は止めてくれ。 そして、奥方を紹介してほしいな」
「そうだ」
 レイモンは急いでロザリーに手を伸ばし、引き寄せて兄と対面させた。
「妻のロザリーです。 そして息子のファブリス」
 ダルニー伯は、すっきりした目を大きくなごませて、母と子を見つめた。 そしてロザリーの手を取ると、唇を当てた。
 丁寧な挨拶に、ロザリーは息を引いた。
「あの、初めまして、伯爵様」
「それはややっこしい。 身分が同じ人が何人もいるから、名前で呼んでください。 ガブリエルと。 いや、ジェルマンでもいいかな。 それと、この子が誕生日を迎えた次男のクリストフです」
 この気さくさに、ロザリーは固まってしまった。 ダルニー伯は別に気づかない様子で、笑顔で振り返って手を振った。 すると、二人の特に美しい女性が、すっきりした足取りで近づいてきた。
 年長の婦人がロザリーに微笑みかけ、手を差し出して挨拶した。
「ジェルマンの妻のイヴォンヌです。 ようこそ」
 そして、隣に立つ若い女性も大きな笑顔で自己紹介した。
「こんにちは、アンリエット・ベルトーです。 でも皆はリリと呼ぶわ。 よろしかったら、あなたもね」


 アンリエット……?
 ロザリーは、輝くような笑顔をしたベルトー夫人を、まじまじと凝視した。 いけないと思っても見つめずにはいられなかった。
 するとアンリエットはロザリーの腕を取った。
「五分だけ奥様をお借りするわね、レイモン?」
「ああ、いいとも」
 レイモンは淡々と答え、ぐずりだしたファブリスをマドの腕から抱き取って、あやしはじめた。 いつものように、ファブリスはすぐ泣きやんだ。


 まだ何を言ったらいいかわからないロザリーを連れて、アンリエットはゆっくり木陰のほうへ歩いた。
 そして、噛みしめるように話し出した。
「レイモンから私との話をお聞きになった?」
「ええ」
 無意識に負けまいとして、声が大きくなった。 アンリエットはほんのりと微笑を浮かべ、慎重に語りはじめた。
「イヴォンヌは私の母なの。 それもご存知?」
「いいえ……」
 少し頭が混乱してきた。 アンリエットは声を押さえて、話を続けた。
「母はダルニー伯の初めての恋人だった。 でも身分が違いすぎて、母は結婚なんか夢にも考えず、一人で私を育てたの。
 ずっと私のためだけに生きてくれたわ。 感謝しているし、こうやって長い月日の後に伯爵と結ばれて、本当によかったと思っています。 その間、私は誰が実の父か、ずっと知らないで生きてきたんだけれどね」
 ロザリーは唇をうるおした。 この圧倒的な魅力を持つ人も、実は苦労して育ってきたんだ、とわかって、親近感が沸いてきた。
「私は今、幼なじみと一緒になって幸せです。 レイモンも、あなたと出会って本当に運がよかった」
「いえ、そんなことは……」
「謙遜しないで」
 とたんにアンリエットの顔が真面目になった。
「あなたは知らない。 証拠がなければ、人の心はなかなか読めないものだし。
 だから、私その証拠を取っておいたの。 あなたに渡したくて、持ってきました。 レイモンには見せないでね。 きっとカンカンに怒るから」
 ちらっと舌を見せた後、アンリエットは折りたたんだ紙を出し、ロザリーの手にすべりこませてから、また肘を取った。
「これまでに到着した親戚の人たちを、ご紹介するわ。 みんなさっぱりした、いい人たちよ」


 アンリエットの言ったように、ダルニー伯の先妻の子オーギュストも他の親類たちも、ロザリーを温かく迎えた。 一族の中で、性格の違うのはオリアーヌだけらしい。 彼女は招待されたのかされなかったのか、ともかく人々の輪の中にはいなかった。
 少し経って始まった昼食会で、ダルニー家の新しい習慣がよくわかった。 ふつう小さな子供たちは、親と違う部屋で食事をするものだが、ここでは子供用の椅子がちゃんと用意されていて、親と共に並んで食べることができたのだ。
 イヴォンヌの子のクリストフ・ピエールと、リリの娘フロランスは、どちらも大変美しい子たちで、くつろいだ風ながら礼儀正しく食事していた。
 フロランスの横に座って、せっせと面倒をみている父親を目にしたとき、ロザリーは二重の意味で圧倒された。 こんなに子供をかわいがり、スプーンで食事までさせる若い父親を見たことがなかった上、はっとするほど魅力的な黒髪の美男子だったからだ。
「あれがリリの夫のピエロだよ。 少年のころから女泣かせと言われてきたが、当人はリリしか目に入らないんだ」
と、レイモンが耳打ちしてきた。
「フロランスはピエロを好きに使ってるな。 今度は娘が男泣かせになりそうだ」
「来年もし女の子が生まれたら、あなたもああなるかしら」
 ロザリーがそっと秘密を打ち明けると、レイモンの目がたちまち真ん丸になった。
「え? 来年? じゃ……」
「ええ、たぶん一月末か二月ごろに」
「うわ、みんな聞いてくれ! 冬に新しい子供が生まれるって」
 歓喜したレイモンが発表してしまったため、ロザリーは真っ赤になったが、一同の拍手に包まれ、乾杯で祝福されて、幸せな気持ちに包まれた。


 その夜、レイモンが兄たちとビリヤードに興じている間に、ロザリーは部屋で、そっとアンリエットから渡された紙を広げてみた。
 それは手紙の一部だった。 見慣れたレイモンの大らかな字が、下までぎっしりと並んでいた。
『……そういうわけで、イタリアへの招待を受けようと思う。
 こんなに探したのに見つからない。 彼女のいないフランスなんて、どこへ住んでも虚しいだけだ。
 元はといえば、本名を明かさなかった僕が悪い。 それはよくわかっている。 病気で寝込んでいる期間が、あまりにも長かった。 ロザリーが見切りをつけて、迎えに来た父親と去っていってしまったのは責められない。
 昨日、二人で住んでいた家に行った。 庭番の娘に留守を頼んでおいたから、どこからどこまで元のままで、中に入るのが苦しいほどだった。
 帰り際に庭のアンズの木を見たら、とうとう涙をこらえきれなくなった。 ロザリーがほしがって、隣から貰ってきた木なんだ。 あと二年もしたら実をつけると、あんなに楽しみにしていたのに。
 そうだ、来年に必ず戻ってこよう。 ロザリーがこの木だけは見捨てないで、会いに来るかもしれないから。 春の間はここに住んで、彼女が訪れるのを待ってみよう。
 そう決めたら、少し落ち着いた。 大丈夫だよ、やけになってイタリアで無茶したりしないから。 でも寂しい。 君の幸せがうらやましいよ。
 変な手紙でごめん。 君しか本心を打ち明けられる相手がいないんだ。 あんなことがあって親友になれるなんて、周りから見たら奇妙だろうが、どうも僕は君に頼ってるらしい。 焼餅を焼かないでくれと、ピエロに言ってくれ。
 じゃ、元気で。 イタリアにも手紙をくれると嬉しい。 それから……』
 そこで手紙は、次に続いていた。


 紙面に、ロザリーの涙がぽたぽたと落ちた。 飾りけのない文章に、レイモンの真心が詰まっていた。 そして、アンリエットに対する今の気持ちも。 二人とも過去を吹っ切ったのだ。 そして、新しい未来を求めた。
 彼を探しに行ってよかった、と、ロザリーは心底思った。 次の冬に子供が生まれて、春になったら、レイモンと共に小さな家に行ってみたい。 いや、帰ってみたい!
 父に誘われてあの家を後にするとき、振り返って窓を見た。 もう夜になっても、そこには灯火の暖かい光はない。 レイモンと二人で一から築き上げたささやかな生活が、灯火と共に消えていくのを、たまらない気持ちで頭から振り払おうとした。
 だが,それは思い違いだった。 外から戻ってくるレイモンこそ、オレンジ色の灯火が迎えてくれるのを支えにしていたのだ。


 そのとき、扉を小さくノックする音がして、レイモンが入ってきた。
「夕食だよ。 もう着替えた?」
 ロザリーは急いで涙を拭い、紙をスカートに隠してから立ち上がった。
「ええ、準備万全よ」
「じゃ、行こう、僕の大事な奥さん」
「ええ、行きましょう、私の最高の旦那様」
 二人は大げさに手を取り合い、膝を曲げてお辞儀しあってから、体をぶつけ合うようにして廊下に出た。 階下からは、小川のせせらぎのように人々の楽しげな談笑の声が聞こえていた。


【完】






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