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38 姉との距離感



「重いインフルエンザにかかったんですって? マルネ子爵夫人から聞いたわ」
 レイモンは初めてロザリーから視線を外し、上等な手袋をはめたままの手で、額に薄く浮いた汗をぬぐった。
「そうだ。 葬儀の後、隣町の宿屋に泊まったときに感染したらしい。 朝は何ともなかったのに、午後に突然咳が出て、立てなくなった。 いっしょに泊まっていた兄と新しい奥方が、宿を借り切って医者を呼んで、手厚く看護してくれたんだ」
「知らなかった。 夢にも思わなかったわ。 わかっていたら、すぐ飛んでいって看病したのに」
「来なくてよかったよ。 妊娠中の君に、もしあのひどい風邪がうつったら」
 ロザリーは激しくまばたきした。 そう言われると返す言葉がない。 でも納得はいかなかった。
「お二人にはうつらなかった?」
「幸いにも。 兄さんたちには本当に感謝してる」
「その後、どうしてイタリアへ?」
「体力を回復するためだ。 暖かいし滋養のある食べ物が多いからと、友達に招待された」
 そういうことだったのか。 それにしても遠いところへ。
「長旅で、かえって疲れたんじゃない?」
「いや、あのときはフランスにいたくなかったんで」
 いくらかレイモンの声が低くなった。
「君に会いたくてたまらなかった。 立って歩けるようになってすぐ、周りを押し切って家に帰ったんだ。 だが君はいなかった」
 ロザリーは息せききって尋ねた。
「それはいつ?」
「春の半ばだ」
 そんなに長く寝ついていたのかと思うと、ロザリーは動揺を隠し切れなくなって、レイモンに抱きついてすすり泣いた。
「四ヶ月も……命が危なかったのね……」
「最初に風邪を甘く見て、無理をしたのがいけなかったんだ。 こじらせてしまって、ひどい目に遭った」
 話しながら、レイモンは大きなハンカチを妻に渡した。 ロザリーはそれで顔中をごしごし拭いた後、事情を話した。
「家を探し当てて、父が不意にやってきたの。 あなたは出てったまま、何の連絡もないんだもの。 だから私、忘れられちゃったのかと思って」
「まさか」
 レイモンの語気が強くなった。
「君を置き去りになんか、するはずがないだろう? 爵位のことを話さなかったのは、そんなもの無しの僕を好きになってほしかったからだ。 でもそろそろ心苦しくなって、打ち明けようと思っていた矢先だった」
「確かめ方は知っていたわ」
 ロザリーは認めた。
「あなた大学へ通っていたでしょう? だから訊きに行ったの。 本当の身分を知ったときは、腰が抜けるかと思ったわ」
 その後、二人はしばらく黙って寄り添っていた。 式を挙げて以来、ずっと同じベッドで眠っていたため、抱き合ってお互いの体温を感じているだけで緊張がほぐれ、心が安らいだ。


 やがて、今聞いた話が頭の中で自然にまとまり、訊きたいことが更に出てきた。
 兄という人は、大学で聞いた話では確か、ダルニーという伯爵だった。 弟にこちらの爵位を譲ったということだが、どういう方なのか。
「お兄様は、私のことをご存知なの?」
「ああ、話した」
 当たり前だろう、という口調だった。 ロザリーは胸を撫で下ろして肩の力を抜き、夫の肩に寄りかかって目を閉じた。
「子爵夫人は知らなかったわ」
 熱を帯びて温かいレイモンの体が、少しよじれて硬くなった。
「オリアーヌは大叔父の葬儀に来たことは来たが、一日半でさっさと自分だけ帰ってしまったんだ。 だから話す暇がなかった。
 正直言って、話したくもなかったんだ。 姉は、僕の幸せに何でも反対する。 母親違いなんだが、血がつながっているとは思えないほど気が合わない。 そもそも何でここにいるのか、それさえわからないよ」
 ロザリーは目をむいた。
「え? あなたに留守を頼まれたとおっしゃっていたわよ」
「勝手にそう思い込んだんだろう」
 レイモンはそっけなく答えた。
「強引な性格なんだ。 でもこうやって僕が戻ってきたし、君がいるんだから、できるだけ早く自宅に戻ってもらうよ」
 ロザリーはためらい、乾いた唇を湿らせた。 あの気位の高い子爵夫人が、だいぶ年の離れた弟のいうことを素直に聞くだろうか。 まさに人を従え、命令するために生まれたような女性なのに。
 おまけに、長く滞在するつもりのようだ。 家の中を整え、自分好みに部屋を飾っていたじゃないか。
「でも、あの方は私を認めていないわ」
 ふっとレイモンの表情が崩れた。 以前には見せたことのない冷たい微笑が、頬をかすめた。
「君は僕の望んだ妻だ。 オリアーヌの許可なんて必要ない。
 それに大叔父は姉を嫌っていて、一銭も遺産を残さなかった。 だからこの土地や家に姉が口を出したら、怒って墓から出てくるかもしれないよ」
 きっぱりとした宣言だった。
 それでもロザリーが不安げにしていると、レイモンは歯を見せて笑い、妻を抱えなおして膝の上に落ち着かせた。
「いや、大叔父より君のほうが怖いかな。 本名の一部しか言わなくて、ごめん。 怒っていただろうね?」







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