表紙 目次前頁次頁
表紙


34 彼が去った訳



 部屋の主の高慢な顔が、すっと血の気を失った。
「何ですって?」
 それから数秒間、息詰まるような沈黙が続き、二人ともまったく動かないままだった。
 やがて気を取り直した子爵夫人は、横柄に顎をしゃくって、命令口調で言った。
「じゃ、お見せなさい! もし本当に持っているというならね」
 ロザリーも負けなかった。 冷たく目を細めて、きっぱりと断った。
「お断りします。 レイモンは貴女のことを全く話してくれませんでしたし」
 呼びつけておいて自己紹介ひとつしなかった相手に対する、痛烈な皮肉だった。
 実際、この偉ぶった婦人は、一方的に屋敷に住み着いた後、村にまったく出てこない上、村長や神父にさえ連絡を取らないという噂だった。
 顔色が悪くなっていたマルネ子爵夫人が、たちまち真っ赤に変じた。 明らかに激怒していた。
「何を……何を偉そうに! 私はあの人の姉よ! こうやって留守を任されたのだから」
「本人から、じかにですか?」
 レイモンの行方を知りたくて訊いてみた言葉は、偶然にも急所を突いたらしい。 夫人はぴたっと口を閉じた。 ほんの数秒だったが、彼女は弱みを見せてしまった。
「……直接にじゃないわ。 レイモンはイタリアにいるのだもの」
 イタリア?
 ロザリーは愕然とした。 まさか外国に行っているなんて、想像もしなかった。
「そんな遠くにいるんですか!」
「そうよ。 知らなかったのね」
 敵はとたんに優勢を取り戻し、我慢ならないほど得意そうになった。
「行けるようになっただけでも大したものよ。 なにしろ、ひどいインフルエンザで死にかけたんだから」


 ロザリーは、まばたきを忘れて立ち尽くした。
 インフルエンザ…… まだ予防注射がなかった時代、それは腸チフスや赤痢と同じくらい危険な病気だった。 約八十年未来の第一次大戦直後、スペイン風邪と呼ばれたインフルエンザが、戦死者より多くの死者を全世界で出しているぐらいだ。
 あんなに大きく逞しいレイモンが、病気で苦しんでいた。 それなのに私は何も知らず、家でじりじりしながら彼の帰りをひたすら待ち続けていた。
「どういうこと……?」
 無意識に、言葉が唇からすべり出た。
「なぜ私に知らせてくれなかったの?」
 使者は来なかった。 手紙も届かなかった。 それは絶対に確かだ!
 いきなり膝が萎えて、ロザリーは床に崩れ落ちてしまった。 さすがに子爵夫人も驚いて、椅子から立ち上がると机を回ってきた。
「ちょっと、あなた? どうしたの?」
 その声は急速に遠ざかり、ロザリーの意識は消えていった。







表紙 目次前頁次頁

Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送