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32 夏の呼び出し



 そして更に一週間ほど過ぎた風の強い日、不意にロザリーの家に、使いがやってきた。
 午前中、ロザリーは空いた時間を使い、いつものように机に向かって字を書く練習をしていた。 読み書きの勉強は、夫が出かけた後もずっと続けていた。 寂しさにくじけそうになったとき、気持ちを支える大事な手段だったのだ。 もうただの無学な娘じゃない。 そのうち聖書だってすらすら読めるようになるし、生活に必要な書類も作れるようになる。 たとえば権利書とか売買契約書とか。 そう思うと、傷ついた自尊心がずいぶん和らいだ。
 ファブリスの出生証明はボーリュー神父に書いてもらったが、そのときロザリーが息子の名前の綴りをすらすら言えるのを聞いて、神父は感心した。 このひなびた村では、男でさえ字を書ける者は少なかったのだ。
 その褒め言葉に力を得て、ロザリーは読むだけでなく、文を書くほうにも熱心になった。 自信がないときには、まとめて週に一度、神父に正しい綴りと使い方を尋ねに行く。 彼の牧師館を切り回している家政婦のアレットは、掃除と料理が得意なものの、縫い物はまったく駄目なので、ロザリーは代わりにシャツやズボンの繕いをしてあげて、勉強のお礼にしていた。 神父が謝礼を金の形で受け取るのを断ったからだ。
 前からの習慣で、反古紙〔ほごし〕の裏に濡らした指で文章を書き写していると、マドが仏頂面で入ってきた。
「奥さん、お屋敷から使いが来てますよ」


 ロザリーは椅子から飛び上がりそうになった。 もし本式にペンとインク壷を使っていたら、きっと引っくり返してしまっただろう。
「私に?」
「そうです。 御用聞きなら外に待たしておくんだけど、いちおう表の部屋に入れておきました。 急いでるんだそうです」
 何事だろう。 心臓が不安で跳ねるのを感じながら、ロザリーはすばやく上着の裾を引っ張って整え、鏡に顔を映して、ちゃんとしているのを確認してから、表の間に向かった。
 中には、きらびやかなお仕着せをまとった中年男性が立っていた。 そして、地味だがきちんとした仕立ての青い服を着て、髪をきれいにまとめたロザリーが現われると、頭を下げてから重々しく言った。
「初めまして。 お屋敷の召使のジョクスです。 奥様がカズヌーヴ夫人で?」
「ええ、そうです」
 ロザリーはしっかりした声で答え、自分の落ち着きに満足した。
 男もロザリーの様子に感銘を受けたらしく、話し方が一段と丁寧になった。
「マルネ子爵夫人が、お目にかかりたいと言っておられます。 馬車でお迎えに来たので、すぐいらしていただきたいのですが」
「ご領主のお姉さまといわれているお方?」
 ロザリーが聞き返すと、男は威厳を持って答えた。
「はい。 もとロリエール男爵、今ではブールギニョン伯爵になられたレイモン様の姉上です」
 思わずたじたじとしそうになって、ロザリーは精一杯胸を張った。 レイモンは伯爵なのだ、という実感が、人の口から聞いてふつふつと沸いてきた。
 つまり、ロザリーの息子ファブリスは、伯爵家の跡継ぎとなるはずなのだ。 私は大貴族を育てなきゃならないんだ、と思うと、一挙に重圧がのしかかってきた。
「わかりました。 着替えてきますから、ここで待っていてください」
「はい、奥様」
 男はまた頭を下げ、神妙に答えた。







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