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28 出産のために



 大叔父の葬儀のすぐ後、レイモンは姿を消したという。 どこへ行ったか、領民たちにはわからない。
 ロザリーは途方に暮れた。 レイモンはこの先どうするつもりなのか。 いつかは本当の身分を明かす気だったかどうかさえ、定かではないのだ。
 そんな彼の留守宅に、妻です、と名乗って現われることは、とてもできなかった。 きっと誰も信じてくれなくて、叩き出されるのが落ちだろう。
 悪いことに、ロザリーは実例を知っていた。
 ブロワにいたとき、オルレアンから流れてきた歌手に聞いた話だ。 カフェで働いていた彼女の姉が、常連の若い貴族の息子を引っかけて酔わせ、もうろうとしている彼に結婚許可証にサインさせてしまったという。
 その証拠を持って、姉は実家に逃げた彼の後を追った。 だが、元陸軍中将の父親にさんざん脅され、許可証を破り捨てられて、すべてを無効にされた。 慰謝料も一切なく、わずかな旅費だけ渡されて、放り出されたそうだ。
「貴族なんて、やくざより悪いわよ。 役所の取り決めまで、自分の都合で簡単に破っちゃうんだもの」
 自分の姉のインチキを棚に上げて、その若い歌手は息まいた。


 だから、私も結婚許可証を持っているけど、見せちゃだめなんだ、とロザリーは思った。 でもここまで来たら、尻尾を巻いて泣き寝入りする気もなかった。 第一、父に別れを言い残したから、もう帰る場所もない。
 ともかく、この近くに住むところを見つけるのが先決だった。 落ち着いて安全に子供を産める場所を。




 ボーリュー神父は、見事な銀髪の、よく太った温厚な老紳士だった。
 彼なら信頼できる、と見て取ったロザリーは、思い切って自分が教えられている限りの真実を、彼に話した。
「私はカズヌーヴという大学生の妻なんです。 彼は冬に、旅に出たまま帰ってこなくなりました。 何が起きたのか、わかりません」
 当時の旅は、十八世紀よりは改善されたものの、まだ危険がないとは言えなかった。 馬車の故障、よく起こる列車事故、それに不景気のせいで追いはぎもあちこちに出現した。
 神父は深い同情を示して、ロザリーの肩を抱いた。 カズヌーヴという苗字は、彼にとって全然聞き覚えのないものらしく、表情ひとつ変えなかった。
 だからロザリーは、複雑な気持ちながらも後を続けた。
「この辺に、彼の親戚がいるという話を聞いたので、頼って来たのですが、見つかりません。 だから、ここに住んで、探したいんです」
 神父は見かけ通り優しくて面倒見がよく、ロザリーが住みかを求めていると相談すると、家政婦のワゾー夫人を呼んで話し合い、すぐ数件の候補を教えてくれた。


 その中でロザリーが選んだのは、村外れだが叫べば隣家に聞こえる、小さな畑つきの家だった。 どうしても庭はあきらめられない。 今は耕すのにいい季節だし、臨月になるまでは簡単な野菜でも作って、食料の足しにしようと思った。
 それから、行きがけに馬車へ乗せてくれたデュフォー夫妻に改めて挨拶に行き、二人に紹介してもらって、真面目で働き者のマドという農婦を手伝いに雇った。




 神父だけでなく、村中の人が、カズヌーヴというロザリーの姓を知らず、まさかそれが領主の変名だとは考えてもいなかった。 でも結婚証明書には確かにそう書かれているので、彼女が身分をいつわっていると思う者もいなかった。
 最初のうち、ロザリーは敬遠されていた。 彼女のように愛らしく若い女性が、わざわざこんな片田舎にやってきて、自前の金で家を買って住むなどというのは、まったく珍しい。
 だから変わり者か世捨て人、さもなければ何かいわくがあって逃げているのかと思われたのだ。
 それでも事情がわかると同情が集まり、人なつっこいロザリーはすぐ、警戒の壁を破った。 デュフォー夫妻とボーリュー神父も力になってくれた。







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