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24 戻った家には



 もう季節は初夏になっていた。
 馬車が通いなれた道に入ると、両側の草や木がたっぷり茂って、通路を狭くしているのがわかった。 ここを出たのがつい昨日のことのように思い出される。 あの小さな家は、今どうなっているだろうか。 この曲がりくねった道のように、新緑に包まれているのだろうか。


 父と泊まっていたポンシャトーからナント郊外まで五○キロ足らず。 馬車は二時間で到着した。
 目立たない場所の馬車止めに駐車してもらって、ロザリーは足元に気をつけながら、ゆっくりと降りた。
「じゃ、ここで待っていてね。 一時間しても戻らなかったら、食事に行ってちょうだい。 あの通りを三○メートルほどいったところにある『五つの卵』亭の食事はおいしいわ」
「わかりやした、奥さん」
 御者は帽子の縁に手をかけて、了解の挨拶をした。


 空には波のような雲が流れ、空気はやわらかく澄んでいた。 ロザリーは小道を歩いているうちにどんどん口が渇き、息をするのも苦しくなってきた。
 角を曲がって真っ先に見えたのは、懐かしい庭にひるがえる洗濯物だった。 誰かが住んでいる。 それも女の人だ。 スカートや真っ白なペチコートの列が目に入って、ロザリーは棒立ちになった。
 くぬぎの木陰から覗くと、間もなく台所の裏口から、小柄な女性が両袖をまくりあげて出てきた。 おそらく二十代だろう。 赤い頬が印象的な丸顔をしていた。
 彼女は洗濯物に触れ、乾いているのを確かめてから取り込みはじめた。 唇が動いて、歌を口ずさんでいるのがわかった。
 健康で、幸せそうだ。 この家の新しい住人なのだった。
 彼は家を売ってしまった。 地主のショーソン夫人に、また様子を見に来ると言っておいたのに、それを待たずに人に売った……
 ロザリーはくるりと身をひるがえし、太い幹を背にして寄りかかった。 なぜか涙は出ず、頭が冴えて次々に連想が浮かんだ。
 初めから何となくわかっていた。 『彼』はただの大学生ではない。 言葉遣いが上品だし、たくましく鍛え上げられた筋肉をしている。 それに、金回りがあまりにもよすぎた。
 そして、手紙に使っていたあの紋章。 あれを調べれば、彼の正体がわかるはずだ。 これまでは知りたくなかった。 短い間でも、何より楽しい夢を見させてくれたことに、感謝さえしていた。
 だが、子供ができたとなると話は別だ。 自分は彼に釣り合う相手じゃないかもしれない。 だが子供は、彼の子。 彼の血をまちがいなく引いているのだ。
 ロザリーは固く目をつぶった。 世の中には若い娘に甘い言葉をささやいて、飽きればすぐポイと捨てる無責任な男があふれている。 付き合った結果はすべて女の責任。 赤ん坊の養育費を出すどころか、自分の子と認めないで知らん顔しても、世間は男を責めないのだ。 ふしだらと悪く言われるのは、女のほうだけ。
 でもレイモンは、そこまで悪い男ではない。 ロザリーは今でもそう思っていた。 わっと燃え上がって、軽はずみに結婚までしたが、日常生活が淡々と続くうちに情熱は薄れ、後悔しはじめたのだろう。 だから、ロザリーのほうが出ていったのを知り、これ幸いと家を人に渡して、忘れ去ることにしたんだ。
 しかし、子供ができたとわかればきっと後悔する。 根は優しい人だもの。 だからきっと面倒をみてくれる。 少なくとも子供だけは。



 まずは体を大事にして、丈夫な子供を産もう。 男心はやっぱり当てにならないから、こうなったら自分の体力だけが頼りだ。
 ロザリーは最初の目標を定めた。 レイモンがケチでなくて、たっぷりお金を渡しておいてくれたのは助かる。 それに、まだ一度も中を見ていないあの箱を、宿に帰ったら開けてみよう。 そして、その中身次第で、先の計画をじっくり立てることにしよう。
 もう振り返らずに、ロザリーは馬車を残した場所を目指した。 地主のショーソン夫人に挨拶して行こうか、と思ったことは思ったが、足がそっちに動かなかった。
 どうせ夫からの伝言は残っていないだろう。 それを確かめるのは辛すぎた。







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