表紙 目次前頁次頁
表紙


23 帰るきっかけ



 これが恋なのだろうか。
 ロザリーにはわからなかった。 今まで一度も味わったことのない感情だったからだ。
 ともかくレイモンが欲しかった。 結婚の話が出なくても、彼と一緒に住めるなら、喜んでついていっただろう。
 ロザリーにとっては不思議なことだった。 夢見がちな父と違い、彼女はいつも先を考えて行動していた。 家賃を計算して貯め、中古の服を仕立てなおし、食料の確保に頭を悩ませた。 彼女の日常には、思いつきや気まぐれが入り込む余地はなかった。 その方面はずっと、父が一人で受け持っていたのだ。
 そんな自分までが、不意に襲ってきたあこがれに振り回されるなんて。
 そろそろ正気に戻るときだ、と、ロザリーは自分に言い聞かせた。 正式な結婚が安定した道だという保証はない。 父と母を見れば、すぐわかることだ。
 地主の家を出て、百メートルほど向こうにある『自宅』を最後に振り返って眺めたとき、ロザリーはむしろホッとしていた。 もう夫の帰りを待つのに疲れ果てて、希望が消えていく家から逃げ出すのだという事実を認める勇気はなく、ロザリーは父の力を借りて、鞄を両手に下げ、早足で遠ざかっていった。




 それから一ヶ月、ロザリーは父と共に、また放浪の生活に戻った。
 長い不遇時代の後、父のジャコブは輝く幸運期に突入したらしく、三度に一度は賭けに勝つ日々を続けていた。 だから住まいも、しけた下宿から中級のホテルへと格上げになり、ロザリーは生まれて初めて新品のドレスを買ってもらった。
 普段着や街着なら、レイモンが買ってくれたし、頼めば喜んでドレスも手に入れてくれただろう。 しかし、ロザリーのほうが作りたがらなかったのだ。 そんなペラペラした派手な服を、堅実な家庭の主婦がどこに着ていけるだろう。 ただの無駄遣いだ。
 でも父は娘を着飾らせたがったし、ロザリーも断らなかった。 遠慮してもどうせ賭けの元金になるだけなのだから。


 そんなふわふわした毎日から、ある日ロザリーは不意に目覚めた。
 夫が去ってから食欲も失せ、最近は細くなったのを自分でも実感していたのに、ずいぶん日が長くなった朝にふと目覚めて寝返りを打ったとき、お腹がぽっこりと出ていることに初めて気づいたのだ。
 あわてて起き上がって、体の前面を撫でおろした。 やはり腹部だけがふっくらしている。 とたんにここ二ヶ月ほどの不調の記憶が次々に押し寄せてきて、ロザリーはよろめいてベッドに座り込んでしまった。
 子供ができたのだ。 こうなったら間違いない。
 彼に知らせなくちゃ、と、すぐ頭に浮かんだ。 川の近くの小さな家に、今度こそ戻ってみよう。


 出てから一ヵ月半が経っていた。 残してきた家を見に行くと父に言うと、貸し馬車を雇ってくれたが、ついてくるとは言ってくれなかった。
「今日はヤンと組んでサイコロ勝負をする約束なんだ。 午後まで馬車の借り賃を前払いしたから、明るいうちに戻ってくるんだぞ」
「ええ、そうするわ。 もし彼が家にいたら、私も残るから、御者の人に伝言する」
 父は言葉に詰まって咳払いし、あらぬ方角を眺めた。
「そうしろ。 じゃあな」







表紙 目次前頁次頁

Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送