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18 万一の備えに



 三月になっても、外はまだ冬のままだった。 寒いし、景気も上向かない。
 国王が外国に逃げるなどという椿事が起きたからといって、世の仕組みがすぐに変わるわけではなかった。 食料品の価格はじりじりと上がり続け、地主が地代の値上げを切り出してロザリーを不安にしたものの、レイモンはいつものとおり平気な顔で、こう言っただけだった。
「大丈夫だよ、ぼくの小さな奥さん。 借地代を倍にすると言われても、ちゃんと払えるから」
「あの人がそんなこと言い出したら、誓ってフライパンで頭を殴ってやる!」
 ロザリーはまじめに言ったのだが、彼女が凶暴なことを口走るたびにやるように、レイモンはそのときも吹き出した。
「真に迫ってるね。 君が鍋を振りかざして夫人に詰め寄るのが見えるようだよ」
「私は本気よ! この土地は土が肥えていて良質だけど、交通の便が悪いもの。 今の値段だってボリすぎだわ」
 ちょうど出かける支度をしていたレイモンは、鏡の前でクラヴァットを結ぶ手を止めて妻を抱き寄せた。
「そうかもしれない。 ぼくは甘い借り手なのかも。 だが、いいじゃないか。 この静かな地で、二人してのんびり暮らせれば」
 もうじき二人だけじゃなくなるかもしれない、と、ロザリーは密かに思った。 まだ口には出せない。 念のため、もう一ヶ月待ってみないと。
「静かすぎて退屈したかい?」
 レイモンの声がわずかに心配そうな色を帯びた。 ロザリーは短い物思いから我に返り、笑顔になった。
「ううん、そんなことない。 落ち着いて暮らせるのが夢だったもの」
 ふわっと垂れたままの夫のクラヴァットに顔を埋めると、外気と石鹸の匂いがした。 いかにもレイモンらしい匂い。 初めて逢ったときから、彼は身なりにかまわなかったが、清潔だった。
 この家と庭と、そしてあなたがいれば、もう何もいらない。 やがて生まれてくる子供たちは別だけど、それは先のこと。 近所に知り合いや友達ができたし、体は丈夫で暮らしも安定しているし。
 ここは小さな天国だわ──ロザリーは背伸びしてキスを求め、しばらく彼とじゃれあった後、もう一度力をこめて抱きしめた。
「今日は何時に帰れる?」
「そうだな〜」
 三つ編みにして頭に巻いた髪が、レイモンの指で下ろされ、くしゃくしゃにされた。
「ギュスターヴを覚えているかい? ほら、茶色の髪の毛がくりくりに縮れてるやつ。 彼が弟を同じ学校に入れたんで、自分の部屋でささやかな歓迎会をするんだ。 酒が入るから、たぶん遅くなるよ」
「夜はぶっそうだから、町に泊まったら?」
「おや、ぼくの腕力を疑うのかい?」
「ちがうわよ、あなたは強い。 でも相手は束になってかかってくるかもしれないでしょう?」
 微笑んでいたレイモンの顔が、急に真面目になった。 そしてロザリーの手を掴むと、書斎の扉を開いて中に連れ込んだ。
「無茶はしない。 約束する。 ぼくには君という家族ができたんだから。
 でもこんな世の中だ。 どこにでも危険が潜んでいるのは確かだ。 だからここに」
 話しながら、彼の手が書き物机の蓋を上げ、引き出しを探った。
「ほら、覚えておいてくれ。 この箱の中に、しばらく暮らしていけるだけのものが入っている。 急に何かが起こっても、心配しなくていいように」
 レイモンは箱の蓋を取って中身を見せようとしたが、ロザリーは手で上から押さえた。 見てしまったら不吉だという迷信じみた思いで、一杯になっていた。
「わかったわ、この箱ね。 ちゃんと覚えておくわ。 でも、そんなものを頼らないですみますように」
「もちろんさ。 これは万一のときの備えだ。 それだけだよ」
 彼の優しい声が、不安な耳に快かった。







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