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12 結婚式の朝に



 何かある。 これは絶対、裏に何か事情があるはずだ。
 現実の厳しさを、ロザリーは嫌になるほど知っていた。 だからいくらレイモンが真面目そうに見えて、事実これまで一つも約束を破らなかったにしても、彼のすべてを信じる気持ちにはなれなかった。


 それでも、翌朝になって日が昇ると、ロザリーはいつもより早くごそごそと起き出し、一番きれいなブラウスとスカートを探して、ていねいにコークスアイロンをかけた。
 皺ひとつなく仕上げて着込んだ後、落ち着かない気分で手提げに財布とスカーフを入れていると、七時半きっかりにドアがノックされた。
 胸をどんと突かれたような緊張が走った。 急いで扉を開くと、いつもの穏やかな笑顔が真っ先に目に入った。 普段と違うのは、きちんとした紺の上下を身にまとっていることだ。 あまり体に合っているようには見えなかったので、借り着かもしれない。 ともかく、レイモンが正装しようと思ってくれたのが、ロザリーには嬉しかった。
「おはよう」
 ロザリーがはにかんで言うと、レイモンは頭を低くして彼女にキスし、挨拶を返した。
「おはよう、よく眠れたかい?」
「まあまあ」
「馬車を借りてきた。 式を終えたらいったんここに帰ってきて、荷物を載せて新しい家に行こう」
 あまりの期待に身震いしそうになりながら、ロザリーはレイモンの腕に掴まった。 目を合わせると、レイモンは力づけるように笑みを送ってくれた。
「心配しないで。 お父さんはいなくなっても、これからは僕がいるよ」


 ロザリーはスカーフを被り、木製の小さな馬車に未来の夫と並んで座った。 レイモンは慣れた手つきで一頭引きの馬をあやつり、物売りや荷物運びでそろそろ混雑してきた通りをなめらかに走らせていった。
 朝の空には雲一つなく、早咲きの薔薇の香りを載せた春の風が、スカーフを揺らして過ぎていった。 ロザリーは嬉しさでじっとしていられなくなって、レイモンに寄りかかって話しかけた。
「ほんとに私と結婚していいの?」
 前の道に注意を向けながら、レイモンは静かに答えた。
「もちろん」
「ご家族は何て?」
「兄には手紙を出した。 そのうち落ち着いたら、君を連れて挨拶に行くつもりだ」
「お兄さん……」
 ロザリーはちょっと考えた。
「ご両親はいないの?」
「いない。 二人とも亡くなった」
「寂しいわね」
「そうだな。 揃って船の沈没で死んでしまったから、しばらくは実感がなくて、よく無事に帰ってきた夢を見たよ」
 ロザリーは黙ってレイモンの腕に頭をもたせかけ、ぬくもりで彼を慰めようとした。


 やがて道の角に建つ教会に到着した。
 小さくて心地よい堂内には、白い髭を生やした神父と、証人となる中年夫婦が待ち受けていた。 夫婦は近所の屋敷の料理番と庭師だそうで、妻のほうがミモザの花束を作ってきていて、ロザリーに手渡した。
 誓いの言葉と祝福だけの式は、あっという間に終わった。 どきどきしていたロザリーにとっては短すぎる時間で、実感が湧かないほどだったが、結婚誓約書に署名するときになって、いきなり胸が迫ってきた。
 興奮しすぎて、ひどく上がっているのが自分でもわかった。 名前の書き方がなかなか思い出せない。 ペンを握ったまま唇を何度も湿らせていると、神父が声を落として助言した。
「もし書けないのなら、○を一つ書きなされ。 わたしがその後に代筆してあげよう」
 カッと頬に血が上った。 書ける! それだけは村に来ていた絵描きに習って、何度も地面に棒で書いて練習したのだ。
 しっかり! と自分を密かに叱り付けたところで、ようやく筆順を思い出した。 ロザリーは震える手で、一字一字ていねいに署名していった。
 ロザリー・アンヌ・ボルデと。







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