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8 父の夢と現実
その夜は月が早く沈んだ。
しかも、八時ごろから強い風が吹きはじめ、劇場の庇や窓ガラスをかたかたと揺らした。
おまけにその晩にかぎってガラの悪い客が多く、野次がもとで乱闘騒ぎが起きたりして、オレンジの売れ行きが悪くなった。
なんかついてない。
十一時過ぎ、集金人に分け前を払うと、いつもの半分しか残らなかった。 こんな日は何もかもだめだ、と思った。
チンピラが噛みタバコをにちゃにちゃさせながら立ち去った後、ロザリーは冷たい風の吹きぬける楽屋口にぽつんと立っていた。
レイモンと名乗った男は、影も形もない。 予想していたから驚かなかった。 ある意味、かえってホッとしたぐらいだ。
今夜は懐に棒だけでなく、父のナイフも忍ばせてきた。 また襲われたら、遠慮なく刺してやる、と決意を固め、ロザリーはぐっと胸を張って、いつもの夜道を歩き出した。
そのとき、駈けてくる足音が聞こえた。 音はぐんぐん近づき、すぐ後ろについたところで、身構えて振り返ろうとしたロザリーの耳に、柔らかい声が届いた。
「ごめん、遅れて」
とたんにロザリーは、膝が抜けそうになった。 一瞬のうちに顔が火照り、胸が熱で満たされた。
「レイモン!」
振り向くとすぐ、腕が巻きついてきた。 肩をぎっしりと覆う上等なマフラーのように。
「友達が下宿に来て、なかなか帰らなかったんだ。 しょうがないから放っておいて出てきた」
「お友達はたくさんいるの?」
「まあそこそこ」
左腕をロザリーにかけたまま、レイモンは懐を探ってくしゃくしゃになった包みを出した。
「下宿のおかみさんが鶏のフリカッセを焼いてくれた。 そしてこっちは」
とポケットからワインの瓶を引っ張り出し、かかげてみせてから、フリカッセの包みをロザリーに渡した。
「これを夕食に加えよう」
「加えるっていうより、こっちが中心になるわ」
パンとチーズ、安物のソーセージしかない戸棚を考えて、ロザリーは嬉しくなった。
「温め直したら、すごいご馳走よ」
ちゃんと正式にしたかったので、部屋に入ると棚の奥から久しぶりにテーブル掛けを取り出した。 アイロンはかけてあるが、長く入れっぱなしのせいで畳み皺が目立つ。 だらしないと思われていそうで、ロザリーは赤くなった。
レイモンのほうは特に気付いた様子もなく、気軽にグラスを並べてパンを切り、慣れた様子で支度をしていた。 その間、ロザリーはフリカッセに火を通して、チーズを切り分けた。
「お父さんは夜の仕事?」
不意にレイモンが訊いた。 びくっとなった拍子に、ロザリーはチーズの皿を落としそうになった。
「父さんは……いつも賭けをしてるの。 勝ったり負けたりで、稼ぎはほとんどないんだけど、このところ大負けはしてないわ」
レイモンは、すっと立ち上がって、熱くなったフリカッセを大皿に載せた。
「賭け事師か」
「ヘボのね」
青い眼が、一瞬ロザリーの心を見透かすように見つめた。
「君を頼りにしてるのかい?」
ロザリーはチーズをテーブルに置き、そっと座った。
「私の稼ぎを賭けにつぎこんだことはないわ。 自分一人の暮らしなら、なんとかなるんじゃない。 私を迎えに来る前はずっとそうしてきたから。
ただ、父さんには夢があるのよ。 大金を手に入れて大きな家を買って、私を飾りたてて立派なお婿さんを見つけるっていう」
「どんな婿?」
「うーん、子供でもまじめに考えないみたいな人。 金持ちで美男で、できれば貴族がいいんだって」
話しながらロザリーは、あまりのばかばかしさに笑い出していた。
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