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表紙


2 暗闇で襲う影



 流浪の父と娘は、ロワール川を運行する船に乗って、トゥール、アンジェ、そしてナントへと下っていった。
 ナントは指折りの大きな町で、立派な寺院や劇場がある。 ロザリーはこの町でも、小柄な体型とかわいらしい顔立ちをうまく使って、まず花売り娘から始め、やがて一流歌劇場のオレンジ売りに出世した。


 劇場の支配人には、十四歳だとサバを読んだ。 実際は五月で十九になるのだが。 それでも、ふわふわとハート型の顔を囲む金色の巻き毛と甘く優しい声、いきいきした碧眼にサクランボのような唇のおかげで、愛らしい子供といっても充分に通用した。
 本当の年齢は、絶対に悟られたくなかった。 大人だとわかれば、いがかわしい商売に誘われるか、悪くするとさらわれるかもしれない。
 感心に、父は金に困っている最中でも、娘の身だけは守ろうとしてくれていた。
「いいかロザリー、父さんはな、今に大もうけして、屋敷と馬車を買うぞ。 そしておまえにたっぷり持参金をつけて、貴族の嫁さんにしてやる。 天まで届くほどでっかい金貨の山を、もっとでかい馬車に積み込んでな」
 母にしたホラ話より、一段と規模が大きくなっている。 ロザリーは心に抱いている自分のささやかな将来の夢と引き比べて、苦笑いするしかなかった。
 今の暮らしを続けていれば、父が長持ちしないのは目に見えていた。 だが、こんな父でも、生きている限りは世話をしてあげたい。 あと五年か、十年保つかどうか。
 そのときになっても、たぶんまだ自分は若く見えるはずだ。 少し年をごまかして、まじめな農夫か商売人を見つけ、所帯を持とう。 賭け事に手を出さず、家出もしない男を、がんばって誘って。




 ナントに流れてきて一ヶ月。 すでに季節は四月の末になっていた。
 社交シーズンたけなわで、スカルラッティを上演する歌劇場の前には立派な馬車が並び、正装した紳士淑女たちが香水やコロンの匂いを播きちらしながら入ってくる。 晴れて爽やかなこんな夜は、ロザリーのオレンジも飛ぶように売れた。
 そして真夜中。 客たちが去った静かな楽屋口から出たロザリーは、分け前を待っていた地回りの子分に売り上げの一部を渡してから、暗い路地へ曲がった。
 父と泊まっている下宿屋は、劇場のすぐ裏手だ。 そこまで七十メートルぐらいしかないので、夜道で尾けられても、走れば玄関に逃げこめる。
 ところがその晩はたまたま新月だった。
 最近パリでは街一面に街灯がつき、ガス灯の光が昼のように明るいと聞いたが、この町ではまだ常夜燈がそこここに吊り下げられているだけで、路地裏はネズミが走ってもわからないぐらい真っ暗なのだ。
 スカートのポケットにしまった売上金をしっかり握りしめると、ロザリーは周囲の気配をうかがいながら、足音を忍ばせて進んだ。
 あと一つ角を曲がったら下宿が見える、という場所で、闇から不意に男が現れた。 そして、マントの裾に手を入れると、隠していた牛目燈をいきなり、急停止したロザリーめがけて突き出した。
 寸前まで闇だったところへ眩い明かりを突きつけられて、ロザリーは一瞬目がくらんだ。
 すると男は低い笑い声を洩らし、近づいてきながら下品な声で言った。
「おや、こんな上玉だとは思いもしなかった。 ちっと相手をしてもらうぜ、ねえちゃん。 五分とかからねーからよ」
 ロザリーの息が荒くなった。 恐怖というより、怒りからだ。 灯りの後ろに隠れてよく見えない男の顔をじっと睨みつけながら、ロザリーは目立たぬように服の背後を探り、スカートの襞〔ひだ〕に隠して腰に下げている棒をそっと外した。
 男はじりじり迫ってくる。 そのうち両手をあげて掴みかかるか、片手を伸ばして腕をとらえようとするだろう。 どっちにしても上半身の備えが甘くなる。 その瞬間を捉えて、腎臓をめがけて思い切り突きを入れれば、鋭い痛みで動けなくなるはずだ。
 前かがみになってロザリーが身構えた瞬間、予想外のことが起こった。
 不意に別の影が男の背後に忍び寄り、首筋を一撃して、鮮やかに地面になぎ倒した。







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