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表紙

透明な絵 ≪2≫
「今でも前の家に住んでるんだな? 電話が昔の番号で通じるから」
「ええ、そうよ……」
 呼吸困難になった気がする。 少し受話器を離して、陶子は短く数度息を吸った。
「帰っていいか? これからすぐ」


 とたんに、冷水を浴びたようになって、陶子は我に返った。
「帰るって、まだ誰だか言ってもいないのに……」
「わかってるだろう?」
 声は優しく、ひたすらなだめるように続いた。
「お父さんだよ。 いつも可愛くそう呼んでくれたじゃないか。 機嫌悪いときは、うちのおじさん、なんて言ってたが」
 そうだ、よく覚えている。 動物園へ行く約束が仕事でダメになったとき、すねてそんな呼び方をした。
 あれは、六歳になったばかりの子供の日だったっけ。
 陶子は、ぶるっと身震いした。 言葉にならない感慨が押し寄せてきた。


 やっぱり、これは父なんだ。


 手のひらに汗がにじんできた。 陶子は受話器を握り替えた。
「今、どこ?」
「成田だ。 空港の近くでかけてる」
 成田の国際空港……外国から戻ってきたということか? 陶子は、ぎゅっと目をつぶった。
「これまで、どこにいたの?」
 一拍置いて、相手は南米の国名を口にした。
「農園をやってるんだ」
「農園?」
「そう。 今、向こうは初夏だから、大変忙しい。 日本で純子の墓参りをしたら、すぐ戻らないと」


 帰っちゃうんだ。
 もう父の生活は海の向こうにあるのだ。 陶子の中で、寂しさとホッとした気持ちが入り混じった。
「わかった。 でも、いきなり家に来てもらうわけにはいかない。 準備があるし」
「そうだね」
 陶子は壁の時計を見た。 七時十六分。 まだ会社へ行くのに間に合う。
「近くでホテル取れる?」
「え? ああ、やってみる」
「チェックインしたら、また電話して。 ロビーで会いましょう」
 それから気がついて、携帯電話の番号を教えた。
「こっちへかけてね」
「わかった」
「じゃ、後でまた」
 切ろうとしたとき、低い言葉が聞こえた。
「おとなになったねえ」
 不意に涙が噴き出てきて、陶子はあわてて電話を置いた。




 急がなきゃ。
 ただそれだけを考えることにして、陶子はもう一度念入りに鍵をかけ、裏木戸から出て、再び錠を下ろした。 ショックで気もそぞろだったが、毎日の習慣で自然に手が動いた。
 バス停留所に向かって道を横切るとき、ドラッグストアの前に停車している灰色の車が目に止まった。
 運転席に坐っている男が、曇り空だというのにサングラスをかけて、陶子の方をじっと見つめていた。







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