表紙

真実のことば

 1


「またあの子は消えたの?」
 いらだった叫び声が、ロココ方式を模した優雅な白い廊下にこだました。
「はい」
 メイド頭のメアリ・ワースの渋い返事が答える。 呼び交わされる大人たちのいらだった声を壁の向こうに聞きながら、マージはパーゴラを猿のように音もなくよじ昇り、出窓の縁に足をかけて、分厚いカーテンの内側にすべりこんだ。
 まだ息が荒く、心臓がどきどきしている。 それでも、ひと走りしてきた後の気分は爽快だった。
 文字通り、自分の足で走り回ったのだ。 ポニーの背中におぶさってではなく。 駆けたり飛んだり、池の裏手に張りめぐらされたロープにぶらさがって小川を越えたりするのは、やみつきになる楽しみだった。
 窓の中に着地して、下を振り返ると、少し離れた木陰から淡い金髪の頭が覗いていた。 彼女が無事に戻れるか心配で、後からついてきていたらしい。
 マージはすぐ笑顔になって、少年に手を振った。 木陰から腕が現われ、ついで顔も半分出てきて、口を大きく開けて笑いながら、挨拶を返した。
「明日も出てこれる?」
 気持ちのいいボーイソプラノが訊いた。 マージは上半身を窓から乗り出して、肩が揺れるほど首を大きく縦に振った。
「行く! だめって言われても、ぜったい抜け出す!」
「マージ! マージョリー!!」
 義母の力み声が近づいてきた。 マージは首をすくめ、まだ木陰にいるアンディ・シンクレア少年に手で合図して、見つかるとまずいから逃げてと告げた。
 ただちにアンディの腕が黒っぽい幹から消えた。 それとほぼ同時に、メアリのがっしりした指がマージの襟首を捉え、重なり合ったカーテンの後ろから引き出した。
「またこんなところに! 言ったはずですよ、今日は三時からカークランド様のお屋敷でお茶会があるんです」
 叱りながらも、働き者のメアリはマージの体を容赦なく回し、埃と小枝を見つけて怒りの呻きを発した。
「汚れてるじゃないですか〜! 屋根裏部屋にでも入り込んだんですか? 今からじゃお風呂を使う時間がありません。 顔と首筋と手だけはしっかり洗って、アフタヌーンドレスに着替えてもらわないと」
「あら、よく見つけたわね」
 二人の話し声、というよりメアリの一方的なお叱りを聞きつけて、館の女主人でありマージの義母のアリシア・ダニング令夫人が急ぎ足でやってきた。 そして、薄汚れた少女を目にするなり、メアリと同じように頭を抱えた。
「マージョリー …… いつも言ってるでしょう? あなたはもう、ごみごみした下町の狭い部屋に押し込められて、人の顔色ばかりうかがっていた哀れな孤児じゃないのよ。 もっと身ぎれいにして、堂々とふるまいなさい。 胸を張って、顎を上げて」
「はい」
 マージョリーは素直に答えた。 彼女は義母が好きだったし、気に入られたいと心から思っていた。



 急いで洗って着替えて、準備のできた馬車に乗って、マージョリーは義母と共に、フィラデルフィア一番の広さがあると言われる御殿のようなカークランド家に向かった。
 一ヶ月前に取り替えたばかりの正門は、銅色に光りかがやいていた。 門番がうやうやしく開いたその先にも、延々と道が続いている。 うねるように作られた道なので、屋敷が見えてくるのは一度曲がった後だった。


 空は、絵本に描かれた挿絵のように青く澄んでいた。 快晴なので、白い鋳鉄製の椅子とテーブルが前庭に並べられ、お茶会は園遊会形式になっていた。
 藍色のドレスで着飾ったアリシア夫人が、御者の手を借りて馬車を降りると、訪れに気付いたドリス・カークランド夫人が、淡い藤色のスカートの裾を揺らして、迎えに来た。
「いらっしゃい、アリシア」
「お招きありがとう、ドリス」
 軽く抱き合って頬に唇を寄せた後、ドリスはアリシアの後ろに立って、手袋をはめた小さな手をもじもじさせているマージョリーにも、笑顔を向けた。
「はじめまして。 私はドリス・カークランドよ」
「お招きありがとうございます」
 マージョリーは緊張して答えた。 ダニング家に引き取られてまだ二ヶ月あまり。 こういった正式な集まりに招待されたのは、生まれて初めてだった。
 するとドリス夫人は微笑して、マージョリーの手を優しく取った。
「こっちへおいでなさい。 新しいお友達に紹介するわ。 うちの息子にもね」


 大人たちが色とりどりのパラソルを掲げて座っている場所から少し離れて、子供たち用のコーナーが設けられていた。 三卓の丸テーブルを四脚ずつ白い椅子が囲み、グレイや青の正装をした少年たちと、淡いパステルカラーのふわふわしたドレスを着た少女たちが、気取った感じで席を取っていた。
 その中から、一人の少年が立ち上がって近づいてきた。 黒に近い褐色の髪で、見たこともないほど凛々しい顔立ちをしている。 背は高いし表情は真面目だし、マージョリーは気おくれして、反射的に後ずさりしてしまった。
 ドリス夫人は笑いながら少女の背を支え、前に押し出した。
「大丈夫よ、あなたを取って食べはしないわ。 うちの息子のケネスよ。 よろしくね」
 ケネス少年はにこりともせず、紺色の目をマージョリーの顔にぴたりと据えて、挨拶した。
「こんにちは。 あっちに君の席があるよ。 案内しよう」

 そのテーブルについていたのは、デコレーションケーキのように着飾った女の子と、そして嬉しいことに、遊び友達のアンディだった。 華やかな服の娘は、近づいてきたモードをあからさまにしげしげと眺めていたが、アンディはすぐマージョリーに笑いかけ、小声で言った。
「やあ」
「こんにちは」
 マージョリーも親しみを込めて答え、ケネスがきちんと引いてくれた椅子に腰掛けた。


 大人たちが優雅にワインをたしなむ中、子供たちにはレモネードとメレンゲ、クッキーが配られた。 マージョリーと同席の女の子は、リーナ・コーションという名前で、親は毛皮商人をしているということだった。
「私、ルビーの指輪を持ってるのよ」
 いきなりそう言うと、リーナはぽっちゃりした右手をマージョリーの前に差し出した。 子供には不釣合いなほど大きくて、ごてごて飾りのついた指輪を、マージョリーはじっと眺めた。
 それから、礼儀正しく言った。
「きれいな指輪ね。 花の形なの?」
 素直に誉められたので、リーナは気をよくして、説明を始めた。
「そう。 しゃくなげの花みたいにしてもらったのよ。 お父さんから誕生日プレゼントなんだ」
 言葉遣いがちょっと違う、とマージョリーが感じたとたん、横のテーブルからひそひそ笑いと小声の当てこすりが聞こえてきた。
「あの子、自慢ばっかりなのよ」
「物しか自慢できないから。 ねえ、あのテーブルって、育ちの悪い子と貰いっ子専用でしょ?」
 マージョリーの背中が、板のように強ばった。
 貰いっ子──つまりは、非嫡出子という意味だ。 マージョリーの義母アリシア・ダニングは、結婚後十年を経て子供に恵まれず、自分から夫に申し出て、彼が結婚前に作った女の子を手元に引き取ることにしたのだった。
 マージョリーの実母は女優で、四年前にファンの一人と結婚し、夫が望まなかった娘を端役女優の粗末な家に預けていた。 だから、養子の話はマージョリーにとっても嬉しいことで、アリシアが親切な女性だったこともあり、よくなついていた。
 ダニング家に来てから、ずっと幸せだった。 露骨に差別されたのは、これが初めてだ。 予想はしていたが、やはり心は傷ついた。
 そのとき、横にいたケネスが椅子の背もたれに手を掛け、上半身をよじるようにして振り向いた。 そして、冷ややかな声で隣のテーブルに呼びかけた。
「僕も愛人の子だってことを知ってて、言ってるんだろうね?」


 彼の声は大きくなかったが、澄んでいるため、よく通った。
 隣の小さな招待客たちは凍りつき、身動きもしなくなった。 ケネスは嘲るように続けた。
「今日の招待を受けちゃったのは、運が悪かったね。 君たちをうっかり招いた僕もそうだけど」




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