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ラプソディー・5




 広い家なので、自宅で通夜を執り行うことになった。 突然の出来事に放心状態になる余裕もなく、真由羅はなれない手続きに追われた。
  医師から死亡証明を貰い、役所に届け、葬儀社に依頼して家を掃除。 会社から見舞いの若手社員が来たことは来たが、ほとんど役に立たなかった。
  奇跡的に、蘭子は右腕をくじいただけの軽傷だった。 助手席にいた和馬のほうは、居眠り運転の大型トラックに斜めからはさまれて即死だったというのに。
  事情が事情だから家で休んでいればいいのに、蘭子は着物の喪服をきちんと着て、夫と長男に支えられるようにしてやってきた。
  初めからパニック状態だった。 2間の和室を続けた通夜の会場に上がるとすぐに、涙をこぼしながらぶつぶつ言い始めた。
「ライトがね、こんなふうに急に見えたのよ。 まぶしいと思ったとたんにガシンて音がして……」
「向こうが居眠りだったんだ。 蘭子が悪いわけじゃないんだよ」
  医者の夫は守りに入って、しきりにトラックを非難した。 しかし、長男の克行は醒めた様子で、
「またケータイとかしてたんじゃないの? 落ち着きなくてすぐ余所見〔よそみ〕するんだから」
とつぶやいた。
  とたんに蘭子は逆切れしてしまった。 息子にむしゃぶりつきそうになりながら、割れた声で叫び出した。
「よくそんなこと! あんたねえ、少しは親の味方しなさいよ! いっつもいつも憎たらしいことばかり言って! そんなに自分がえらいと思ってるんなら、学費かせいでごらんよ! 二浪してさんざん金使わせて、その上あんたが変な入れ知恵するから敏則だって……」
「やめろよ、落ち着け!」
  夫の声など耳に入らない様子だった。 早くから席についていた弔問客は、見て見ないふりをしている。 表に小さなテントを張って受け付けをしてくれていた女子社員までが顔を覗かせて、驚いた表情をしていた。
  少し透に顔立ちが似て細面の克行は、神経質そうにぴりっと頬をふるわせると怒鳴り返した。
「うるせ、ババア。 おじさんと一緒にくたばれ!」
  さすがの蘭子もこれには雷に打たれたように立ちすくんでしまった。 克行はぷいっと玄関を出て、どこかへ消えうせた。
  襖の横で弔問客を迎えていた真由羅は、疲れに騒音が重なって本当に頭が痛くなってきた。 いくらなんでもこういう席ではもう少し大人の振舞いをしてくれるものと思ったが、蘭子はいつも以上に感情的で、しかも自己中心だ。 仏頂面でも克行が、わざわざ喪服に着替えてついてきたのは、母が心配だったからだと、真由羅にはわかっていた。
  部屋の突き当たりに安置してある兄の遺体を見ると、蘭子の肩はふるえ出した。 なかなかそばに行けないのを見て、真由羅は直感した。 蘭子の方にも落ち度があったのだ。 だからこんなに、気が咎めている…
  夫の兼近医師は、真由羅と目が合うと一礼した。 真由羅も頭を下げると、兼近はそっと立ち上がって耳打ちした。
「いろいろあって興奮しててね。 すみません、すぐ帰ります」
「どうも」
  小声で言って、真由羅は玄関を確かめた。 透には会社の方から連絡してもらったが、まだ来ていないのが気がかりだった。

  間もなく大きな寿司桶が運び込まれ、御清めの食事が始まった。 気が気でない真由羅は、自分で電話をかけようと思い立ち、和馬の机に電話帳を探しに行った。 いつも彼が使っていた携帯電話は、持ち主とともに車の中でつぶされてしまったから……
  和馬は用心深い性格で、きちんと重要な番号は控えを取っていた。 すぐに手帳を見つけ出し、透の番号を指でたどっていたとき、庭から本人が入ってくるのが見えた。
  喪服を着ている。 なんとなく合わないのは借りてきたせいだろう。 部屋からの灯りで薄ぼんやりと浮かんだ白い顔には、まったく感情がうかがえなかった。
  サッシの戸越しに真由羅を見つけると、透は足を止めた。 そして、平らな声で尋ねた。
「親父はどこ?」
「和室の方に」
  透はうなずき、歩いていった。 上半身を動かさずなめらかに歩くので、まるで夜の庭を滑っていくように見えた。

  言葉どおり、兼近医師は早々に妻を連れて帰った後だった。 残った弔問客たちは、酒が入ったこともあって、蘭子の噂話を始めてしまった。
「すごいねえ、あんなに取り乱すものかね」
「まあ、自分だけ助かると、申し訳ないって気持ちになるものですよ」
「申し訳ながってたか?」
「いやあ……」
「ああいうヒステリータイプはさ、運転なんかしないほうがいいんだよ」
  肌寒いのに汗をかいた中年が、わかったように大声で言っている。 真由羅は額を押さえた。 もうお開きにしたい。 疲れた。 倒れそう……
  そっと腕を支えられた。 顔を上げると、会社の顧問弁護士をしている生田だった。
「ほんとに、大変なことでしたね」
「ええ」
  人目をつくろったものでなく、本当に弱々しい声が出た。 この広い家に、たった一人になってしまったんだ――わずらわしい客でも、いてくれると気が紛れるのだと、真由羅はようやく悟った。
  やがて人々は真由羅にやさしい言葉をかけて帰っていった。 透はどうしただろう。 せめて今夜はここに戻ってきてくれないだろうか…
  そんな淡い期待は、すぐに消えた。 広い和室は既に空っぽで、一段と広く、寒寒としていた。 透はいつの間にか立ち去っていた。


  2日後に近くの寺で葬儀をした。 通夜で疲れきった真由羅は、すべて葬儀社まかせにしたので、10日後に来た請求書は相当な金額に上っていた。
  ようやく和馬の死を実感できるようになって、真由羅は軽いうつ状態に陥っていた。 友達や親戚は心配して電話をかけてきてくれる。 中には、落ち込んでいると体に毒だからと食事に誘ってくれる人もいた。
  だが、真由羅はすべて断った。 悲しむときは、ちゃんと悲しみたかった。 和馬はいい夫だったし、真由羅を大事にしてくれた。 息子よりも真由羅を優先してくれたのだ。 だからこじれてしまったのだが。

  葬儀から半月経った月曜日、弁護士の生田から電話があった。
「あの、大事なお話があるんですが、お会いできませんか?」
  真由羅はためらった。 結婚以前から顔見知りで、生田が自分に関心を持っているのをうすうす感じていた真由羅は、ふたりで会うのはまずいと本能的に感じ、新宿のレストランで待ち合わせることにした。

  そこで聞かされたのは、耳を疑う事実だった。 生田は会社の顧問と同時に和馬の個人的な相談相手にもなっていたらしく、あることを知っていた。 真由羅自身にも知らされていなかったことを。
  なんと真由羅は結婚していなかった。 和馬は、結婚届を提出しなかったのだ。



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