気分が悪かった。 信じられなくて、腹が立った。 内縁の妻でも事実婚と認められれば、《正妻》の半分の財産はもらえますよ、などと生田が言うので、いっそうムカついた。
金がほしくて結婚したわけじゃない。 もちろん、安定した生活はうれしかった。 だが、会社では経理をやっていて、ちゃんと自活していたのだ。 それをさも財産目当てみたいに……!
愛人扱いされていたと知って、真由羅の気持ちは一度にさめた。 腹立ち紛れに透に電話したが、出ない。 知らない相手は不通話にしているらしい。 読むかどうかわからないが、メールを出した。
『アパートを借りて、そっちへ移ります。 自分の家なんだから、帰ってきてください』
「財産目当てじゃないけど、貰うものは貰うんだから」
そうつぶやきながら、真由羅は就職雑誌をながめていた。 和馬に言われたから仕事を辞めたのだ。 責任は取ってもらう。 でも……
いつしか、真由羅はぼんやりと空間に視線をさまよわせていた。 日に日に衝撃は大きくなるばかりだった。
「もう全財産つっかえしてやろうか」
できるものならそうしたかった。 生活の不安がないなら。
「ああ、もう!」
真剣に愛されていなかったのだと思うと、しんしんと心が寒かった。
その雑誌は字が小さくて目が疲れた。 白い丸テーブルにぽんと置き、伸びをしながら立ち上がったとき、チャイムが鳴った。
真由羅は時計を見た。 弁護士の生田と食事に行く約束がある。 だがまだ11時。 半時間も早い。
「まだ準備してないよ」
と口の中でつぶやきながら、真由羅はドアに向かった。
念のため、ドアの覗き窓を見たとたん、その場に硬直してしまった。 そこにいたのは、透だった。
長いコートを無雑作にはおり、キャスケット帽を目深にかぶっている。 真由羅はどうしていいかわからず、ドアに寄りかかった。
またチャイムが鳴ったので、やむを得ず、真由羅はそっとドアを開けた。 透は軽く頭を下げ、低く言った。
「遺産のことで話したいんですけど」
透をこんなに間近で見たのは、実に半年ぶりだった。 ドアに半分体を隠したまま、真由羅はぎこちなく答えた。
「あの、それは第三者がいるところの方がいいと……」
透の視線が、まっすぐ真由羅の眼を射た。
「全部真由羅さんにあげます」
そんな…… 考えられない言葉に、真由羅は思わずドアにしがみついた。
「待って。 私何も……」
「入れてください」
どういうことなんだ――これまで連絡を取ろうとしても返事ひとつくれなかったくせに、透は不意にやってきて、初対面のときと同じに押し強く入ってきた。 真由羅は彼を追い出すことも、冷たくすることもできなかった。
帽子を取ると、透はソファーに腰かけた。 相変わらず色が白く、首筋が清潔だ。 でも、誰かと同棲してるんだ、と思って見直すと、胸が妙な風にどきどきしてきて、真由羅は自分をもてあました。
彼がブラックコーヒー好きなのは知っていた。 ドリップを棚から下ろしていると、またチャイムが鳴り響いた。
真由羅の手が止まった。 今度こそ生田弁護士にちがいない。 ソファーの後ろのせまい空間をすり抜けて出ようとしたとき、不意に透の腕が伸びた。 強く引かれた真由羅は、ソファーの低い背もたれ越しに、透の膝へ転がりこんでしまった。
「関さん! 真由羅さん!」
驚いて声が出ない真由羅のすぐ上に、透のはしばみ色の瞳が広がってきた。 生田がドアを叩いている。 あせって身を起こそうとした瞬間、唇をふさがれた。
「関さん! いないんですか?」
ソファーに倒され、上からぴったりと抱きすくめられて、激しいキスを浴びていては、迎えに出るどころではない。 長々とキスを続けながら、透はしなやかな体をくねらせてコートを脱ぎ始めた。
――こんなことをしてはいけない!――
真由羅の頭の片隅で、小さな声が叫んだ。 空想で彼の透明な首筋に口づけし、締まった腰に腕を回したことはあった。 だが現実に熱い肌に触れ、肩や胸に唇が這うのを感じると、罪の意識に体中が震えた。
「だめ」
息だけで真由羅は逆らった。 すると透は両腕を真由羅の背中に回して激しく抱き寄せた。 思ったよりずっと強い力だった。
「だめ……!」
でもこの心地よさは…… 全然ちがう。 死んだ夫とはあまりにも……
和馬を思い出したとたん、真由羅は我に返った。 そして飛び起きようとした。 透は必死で彼女を押さえつけた。 争いは、ごく短い間しか続かなかった。
ふたりは抱き合ったまま、ソファーに横たわっていた。 長く伸びた冬の夕日が、部屋をほのかに照らしていた。
胸に透の頭をのせて、真由羅は茫然と目を見開いていた。 空のかけらが落ちてきたよりも、もっと大きな衝撃だった。 初めて見たときから心の奥底で望んでいた。 何のあてもなく夢見たこともあった。 だからといって、このありさまは……
ドアの外はとっくに静かになっていた。 生田は怒って帰ったのだろう。
やがて透がゆっくり顔を上げた。 眼がうつろにぼんやりしている。 真由羅はそっと彼を押しのけようとした。
やにわに透は彼女に抱きつき、離すまいとした。 まるで小さな子供にしがみつかれているようで、真由羅はどうしたらいいかわからなくなった。
「離して」
「嫌だ」
「離して、透さん」
「いやだ!」
そして真由羅の手を取って指を口に含み、手のひらに、甲に、唇を押しつけた。
「限界なんだ。 もう耐えられなかった!
好きで……好きで、たまらなかったんだ。 でも、父親の奥さんと義理の息子は、たとえ離婚した後でも結婚は許されない。 だから、できるだけ離れているしかなかった」
全身がしびれた。 目の前が大きく揺れる。 半分意識が遠のいた。
「あんまり苦しいから他の女を抱いたけど、一時しのぎにしかならなかった。 親父が死んでからは、もう地獄だった!
でも、あの弁護士が口すべらせて、真由羅さんは半年たたなくても再婚できるんですよ、なんて言うから驚いて、役所に行ったんだ。 それでわかった。 その足で、気がついたらここに来てた」
見ていたんだ――真由羅はようやく悟った。 離れていたようで、いつも見ていた。 真由羅が家を出たことも、このアパートに移ってきたことも、透は初めから知っていた。
小さく体を動かして、真由羅は囁くように言った。
「地獄はこれからよ。 透さんは人気が出かかってる。 こんな大スキャンダル、事務所が許すわけがない」
「真由羅さんはいいの?」
激しく透が尋ねた。 真由羅ははっとした。 無意識のうちに、本心が出てしまっていた。
大きくひとつ深呼吸して、透は微笑した。 これまで見せたことのない、光のような微笑だった。
「好きで歌ってたわけじゃないから。 気持ちぶつけてただけだから。
表に出るより、曲作りたいんだ。 これまでも作ってたし」
「でも」
「結婚しよう」
「待って」
「ふたりで届け出しに行こう。 俺は頭よくないけど、自分の欲しいものはわかってる。 親父みたいに迷ったりしない。 ね?」
これではまるで、つむじ風だった。 だが、巻かれてみたいと真由羅は思った。 どうしてもそう思ってしまった。
「初めから好きだった。 喫茶店で、優しい眼をして俺を見てただろう。 いい感じの人だなと思った。 親父の再婚、この人なら許せると思ったんだ。
でも、二度目に逢ったときにわかった。 絶対にいやだ。 絶対我慢できない。 こんなに好きなのに」
好きという気持ちに殺される人もいる。 なんて理不尽な感情だろう。 真由羅は目を閉じた。 そして思った。
――嵐をしのいで乗り切ろう。 両思いなんだから。 私も言わなくちゃ。 ちゃんと声に出して、好きだって――
--- the end ---
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