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ラプソディー・3


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 眼を上げた先に、すらっとした少年が見えた。真由羅は思わずたじろいだ。 あの子だ!
  それは確かに、この前喫茶店で会い、半日の思いがけないデートを楽しんだ、あの美少年だった。 逆光で、茶色に染めた髪が金粉をかけたように見える。 やさしい顔立ちなのに女っぽくない、芯のある立ち姿だった。
  とたんに真由羅は振り返りたくなった。 見送りを断った和馬が、もし気を変えてついてきていたら…… ただ向かい合っているだけなのに、そんな心配をするところが真由羅のやましさの現れだった。
  少年はにこにこしながら近づいてきた。 真由羅はおぼつかない笑顔を浮かべた。
「今日2つ食べて、明日チンして1つ食べるの」
「ここで1つずつ食べましょうよ。 熱いうちに」
  少年が手を差し出したので、真由羅はちょっと驚きながらも袋から1つ出して載せた。 この前のお礼だと思えば安いものだ。 二人はドラ焼きをほおばりながら、吉祥寺の賑やかな商店街を歩いた。
  立ち食いなどしたことがなかったので、真由羅は子供に返ったような楽しさを覚えていた。
  少年も楽しそうだった。 食べ終わると、真由羅の手を掴んで、通りを渡った。 そして、かわいらしい花屋に飛び込んだ。
  バラとマーガレットの小じんまりした花束を、少年は真由羅に贈った。
「ドラ焼きのお返し」
「ありがとう。 でもお返しには立派すぎるわ」
「横取りしたんだから、このぐらい当然」
  そっと花束を真由羅の左手に持たせると、右手を握って、少年は花屋から出た。
  二人は駅まで手をつないでいた。 それがごく自然に思えた。 彼があまりにも天真爛漫〔てんしんらんまん〕だったからだろう。 空は晴れて、空気は暖かく、真由羅はほかほかした気分になっていた。
「アシュレイ・ジャッドってきれいなひとね」
「そうでしょう?」
「私のどこがあの人に似てる?」
  正直に不思議だったので訊いてみた。 すると彼は、ちょうど通り抜けようとしていたサンロード・アーケードの店のショーウィンドウを指差した。
「ほら」
  つられて見てしまった真由羅は、手足の長い若者と並んで歩いている自分を発見して、大きく鼓動が打つのを感じた。
  似合ってる――信じられなかった。 自分が女優のようにきれいだなんて思っているわけじゃない。 ただ、背丈といい、雰囲気といい、想像できないほど似通っていた。 真由羅は168センチあり、生まれつき髪が茶色がかっている。 そのせいで学校でいやな思いをしたことがあった。
  真由羅の心を透視したかのように、少年が少し前かがみになってささやいた。
「いい雰囲気でしょう? 僕たち」
  どうしてそういう言葉がすらっと出て、しかも似合うの?――真由羅は急にやりきれない思いに駆られ、相手を上目遣いににらんだ。
「本名も言わない人と?」
「名前なんて符号だ」
「IDよ。 生きていくための」
  少年の表情が硬くなった気がした。 そして、そっけなく真由羅の手を離すと、どんどん歩いていった。
  しまった、と思った。 だが、これでいいんだとも思えた。 後を追おうとはしないで、真由羅はただ、最後のプレゼントになった花束をしっかりと握りしめた。

 その夜、自宅の小さいアパートで、真由羅は昼間の出来事を宝のように思い返していた。
  それからふっと溜め息をついて、花束をコップに刺し、スケッチを始めた。 花はすぐに枯れるが、絵に残しておけば、思い出はいつまでも残る。 パステルで色をつけながら、真由羅は自然に笑顔になっていた。

   海老原の一族―――といっても、和馬の妹で医者と結婚している兼近蘭子〔かねちか らんこ〕と息子の透だけだが―――が再婚に反対しているので、結婚式は挙げず、二人は結婚届だけ出すことにした。
  式の代わりに二人だけで豪華レストランで会食をし、夜の9時すぎに、真由羅は海老原に連れられて、いよいよ彼の家に本式に行った。
  広い玄関で、真由羅は少し固くなって和馬に挨拶した。
「これからよろしくお願いします」
  和馬も真面目に頭を下げた。
「こちらこそよろしく。 ふつつかなオヤジだが、見捨てないでくれ」
  ダンディーな和馬に似合わないセリフに、真由羅は思わずクスッと笑ってしまった。

  これまた広い、殺風景なほどのLDKに、真由羅は新たな気持ちで入っていった。
「好きに模様替えしてもらおうと思って、何も買ってないんだ。 うちであまり食べないからね。 昨日一応冷凍食品を届けてもらったが」
  さらっと言ったその冷凍食品は、北陸のタラバガニ、瀬戸内のフグ、滋賀のアワビ、などなどだった。 見栄を張って思い切り贅沢な通販を選んだのか、それともこれが普通なのか、真由羅にはわからなかった。
「野菜が少ないな」
「そうだな。 あまり好きじゃないんで」
「店が近いから、買ってくるわ」
「待てよ」
  和馬は驚いた。
「明日1日ぐらい大丈夫だよ、野菜がなくたって。 もうこんな時間だし」
「そうね」
  真由羅がダイニングの椅子に腰をおろした、ちょうどそのとき、玄関のドアが開いて、つむじ風のように人が入ってきた。
「なんで留守に勝手に来て、金なんか置いてくんだよ。 オレは一人で充分……」
  声が止まった。 金色がかった瞳が、ダイニングで動けなくなっている真由羅に吸いつけられ、そのまま固定してしまった。

  ふたりがただ茫然と見つめあっているのを、にらみ合いと取った和馬は、あわててつまずきながらカウンターから出てきた。
「悪気はなかったんだ。 ただ、お前の稼ぎは不安定だろう? 少しは貯金も必要だし」
「ほっとけ!」
  鋭い声で怒鳴り返すと、美しい少年はくるっと向きを変えて、一またぎで玄関から消えた。

  耳の中がわんわん鳴り響いている。 和馬の声が遠くに聞こえた。
「すまない。 あれが透だ。 挨拶ひとつできないで、やっぱり男手だと行き届かないのかな」


  椅子に座っていて、よかったなあと思った。 ふらつかないですんだだけでも。


 固い、おびえたような眼差しで、まばたきもせずに見つめていた彼。 海老原 透。
  ようやくわかった少年の名前は、真由羅を打ちのめした。
 
「透さんは、私を見たことがある?」
「あると思うよ。 会社に2度ほど来たから」
  頭がくらくらした。 故障したジェットコースターに乗っている気分だ。 すべてが回って見えた。
「派手に見えただろうが、見かけほど不良じゃない。 バンドを組んでいるんだ。 間もなくテレビに出るそうだ。 もう少し勉強もしてもらいたいが」
  あんまりだ――次第に真由羅は怒りを感じはじめた。 やっぱりからかわれたんだ。 父親の再婚相手を、おちょくってたんだ……!


 専業主婦になってからの毎日は、思ったよりわびしかった。 高級住宅地だけに近所の家は都会にしては大きく、守りも万全で、奥さんたちはなかなか出てこない。 たまに姿を見せても車でさっと行ってしまって、挨拶程度の付き合いしかできなかった。
  年齢層もちがった。 真由羅のような若い主婦は普通住めない地帯なのだ。 といって、主婦の子の独身娘たちは、はるか年上と結婚した真由羅を別の人種と見ているらしく、話が合わないと頭から決めつけて、近づいてこなかった。
  近くに大きな公園があることから、真由羅は思いついた。 犬を飼えば友達ができるかもしれない。 それで夫に相談すると、何と彼は動物の毛アレルギーなのだった。

  つまらない。 つまらない。 贅沢だけど、ほんとにつまらない。
  真由羅は初めて、忙しく働いていた人間が急にたったひとり家に取り残されるとどうなるかわかった。 金はある。 充分すぎるほど夫から渡されている。 だが、遊べない。 同僚とつるんでショッピングした日々が懐かしかった。
  和馬が猛烈に忙しいのは、結婚する前からわかっていたことだ。 不満は言わない。 真由羅がしたいことは今のところ1つ。 海外旅行に行ってみたかった。 だが、和馬にそんな暇はなく、真由羅を一人で行かせるつもりはもっとなかった。

  それでも半月すると少し慣れた。 新宿まで電車で出て、CADを習いはじめた。 ものになるかはわからないが、集中していると時間を忘れる。 真由羅には、忘れることが必要だった。

  徹はまったく家に帰ってこなかった。 その反対に、ずっと年上だが義理の妹ということになってしまった蘭子のほうは、2週間に一度、華道の稽古の後に、定期的に訪ねてくるようになってしまった。
  若作りがそれなりに似合う美人だが、真由羅には気詰まりだった。 ふつうそうだろう。 結婚には強く反対されたし、いい感情が持てるはずがない。 しかし、そんなことはケロッと忘れたふうで、蘭子は現れ、さりげなく馬鹿にしていった。
「カップはそう棚にしまうものじゃないの。 こうやってソーサーはソーサーで分けないと」
「カトラリーはこっちの引出しに入れといたものなのよ。 あら、カトラリー知らないの?」
  ナイフ、フォークで充分だ。 まとめて英語で言えばエライのか、と言ってやりたくなったが、我慢した。 それより、ひとのキッチンを勝手に模様替えしてほしくなかった。 たしかに元は実家だろう。 だが今は、和馬と真由羅の家なのだから。

  クリスマスが近くなったころ、蘭子はいつものようにやって来て、爆弾を落としていった。
  一応手みやげに持ってきたモロ○フのチョコレートを口に入れながら、蘭子は和馬と話していた。
「透ちゃんがね、コンサートするんだって。 私にだけ券くれたから、持ってきたわ。 この日は用があるの。 だからお兄さん、行きなさいよ」
「俺はどうも」
  和馬は当惑した表情だった。
「あいつらの曲は音量が大きくて、耳が壊れそうになるんだ」
「じゃ、あなた行って」
  不意に矛先が自分に向いたので、紅茶を置いていた真由羅はぎょっとした。
「私がですか?」
「いやそうに言わないの。 行って、徹ちゃんがどんなふうか見てきて。 あなたが追い出したんだから、義務よ」
「おい」
  さすがに和馬が気色ばんだ。
「追い出したとは何だ」
「だってそうでしょ? 真由羅さんが来てから、あの子帰ってきた?」
  私のせいじゃない。 彼のほうが勝手に近づいてきて、気まずくしてしまったんだ―――真由羅は、一度でいいからそう大声で叫べたらなあと、心から思った。



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