表紙
 

ラプソディー・2


 何やってるんだろう、私……
 
  不意にずしっと足が重くなった。
  付き合いきれない。 こんな目立つ子……
  母子連れをかきわけて、泳ぐように出口に向かう真由羅を、少年があわてて追った。
「待って! あれ? ちょっと」

  もちろんすぐに追いつかれた。 そして前に立ちふさがられた。 走ったわけでもないのに、少年は肩で小刻みに息をしていた。
「どうしたんですか? 急に急ぎ出して」
「なんだか……」
  不安になったとは言えないじゃないか。 真由羅はとっさに、最初頭に浮かんだ言葉を口にした。
「ちょっと足が痛くて」
  そして、見事に少年の思う壺にはまってしまった。
「そうなんだ。 じゃ、ちょうどよかった。 車で来てるんです。 うちまで送りますよ」


 青い小さなくるまだった。 かわいい、と思わず思ってしまったが、それが実はゴルフという外車で、中古でも結構な値段だということを、真由羅は後になって知った。
  そのときは、わからなかった。 少年は、ていねいに真由羅を助手席に入れてから、長い足を折り曲げて運転席に座った。
「うちはどこですか?」
  ダッシュボードにおいてあるミニチュア・ガイコツに見とれてぼんやりしていた真由羅は、またまた反射的に答えていた。
「阿佐ヶ谷」
  少年はうなずき、車の向きを変えた。 なかなかうまいホイールさばきだ。 見た目は高校3年ぐらいだが、たぶんもう少し年上らしかった。
  コンパクトな車内で、膝が触れ合いそうな近さで座りながら、真由羅ははじめて彼に質問してみた。
「大学生? それともお勤め?」
  少年の横顔がほころんだ。
「やっと好奇心持ってくれましたね。 大学生です」
「ああ……」
  相手に訊いたからには自分も答えなきゃ、と妙な義務感が出た。 真由羅はためらいながら、そっと言った。
「私は勤め人」
  少年はぐっとステアリングを回して大きく角を曲がった。
「何て呼びましょうか?」
「……は?」
「なんか、つまんないじゃないですか。 親が勝手につけた名前なんて。 えーと、そうだな、アシュレイ・ジャッドに似てるから、アッシュとか。 どうですか?」
  思わず真由羅は、面白がっているような少年の顔をまじまじと見た。 彼に似ている有名人は、とっさには一人しか思い浮かばない。
「あなたは山本耕史さんに似てると思うけど」
  少年は少し眼を大きくした。
「光栄ですね。 じゃ、コウちゃん?」
「はあ?」
  思わず真由羅は笑い出した。 なぜか彼をちゃん付けで呼ぶ気にはなれなかった。 おとなびているというわけじゃない。 むしろ年より若く見えるぐらいなのだが、彼にはどこかきりっとしたところがあって、幼い呼び方は似合わなかった。
「いやなら、呼び捨ては? コウジ! いい、うん、なかなか」
  一人で喜んでいる。 またこの子の世界に取り込まれそうだ。 真由羅は少しあせった。
「よしましょうよ。 ちゃんと名乗ろう。 私は……」
「アッシュ。 いいじゃないですか。 おもしろいよ、こういうの」
  そう言いながら軽くナビを覗いて、『コウジ』は尋ねた。
「もうじき阿佐ヶ谷の駅ですけど、そこからどう行きます?」
  ほんとにまっすぐ連れてきてくれた。 そのことに、真由羅は驚いてしまった。
「ありがとう。 駅の近くだから」
「ああ」
  『コウジ』はくすくす笑った。
「家を知られたくないんだ」
「ていうか、今日初めて会っただけだし」
「だけ?」
  『コウジ』は残念そうに言葉を返した。
「僕は楽しかったけど」
  くるまはおとなしく駅前に止まった。 だが、シートベルトを外す真由羅の手を、不意に長い指が押さえた。 真由羅の目先が白くなった。
  手を重ねたまま、『コウジ』はぽつりと言った。
「あっという間についちゃったな」
  そして、ふっと上半身を倒して、真由羅にキスした。 唇にではなく、頬に。
  車を降りるとき、真由羅は危うくよろめくところだった。 まるで外国映画みたい。 はっきりいってキザ。 でも、それが似合う相手だった。
  数歩歩いて、ためらいがちに、真由羅は振り返った。 くるまはもうどこにも見えなかった。

 なんだったんだろう――行きずり以上、デート未満の午後を、真由羅はベッドの中で何度も思い返し、首をひねった。 それから不意に起き出して、ネットで『アシュレイ・ジャッド』という女優を調べた。
「美人じゃん」
  正直、うれしかった。


 雨水が山にしみこんで、何年かかけて湧き出てくるように、真由羅は少しずつ溶けていった。
  はじめはまったく気付かなかった。 ちょっとした楽しい体験――ただそれだけだった。 だが、やがてわかった。 真由羅の右頬にはいつまでもキスの熱が残り、手には軽いやけどのように指の感触がなまなましい。 日々思い出が遠ざかっていくはずが、逆に心にくっきりと 彫り込まれていく。 次第に真由羅はあせり出した。

  あれっきりだった。 あれから阿佐ヶ谷の駅に彼が来た様子はない。 一週間後の同じ時間にあのカフェに立ち寄ってみたが、何一つ起きなかった。 ただコーヒーを飲んで帰ってきただけ。 真由羅は自分でも驚くほど落ちこんだ。
「何よ、仇名までつけたくせに」
  ほんの気まぐれ、言ってみればゲームだったんだ、と思うしかなかった。

  エレベーターの壁に寄りかかって下を向いていたら、3階から和馬がたまたま乗ってきた。
  ふたり切りなので、和馬は気軽に話しかけてきた。
「どうした」
「ううん」
  少し甘えた声で、真由羅は返事をした。 海老原和馬、52歳、(株)レイシン工業の専務取締役。 やり手のこの男が、真由羅の密かな婚約相手だった。
  式が終わってから発表すると、二人は決めていた。 だから会社ではなれなれしくしない。 二人の仲は、本当に誰も知らないはずだった。
  他に誰もいないのをいいことに、和馬は真由羅の手を握った。
「悪いな、ほんとに」
  自宅に呼べないことを詫びている。 家族がまだ和馬の再婚に反対しているのだった。
「でも俺の決心は固いから」
「うん」
  真由羅はこくりとうなずいた。 ちょうど倍の年だから、やっぱり甘えてしまう。 和馬の傍は安心できて、居心地がよかった。
  握った手に力をこめながら、和馬はささやいた。
「ほんとにいいのか? 式あげなくて。 俺は再婚だけど、真由は初婚なんだから、教会とか、あこがれないか?」
  微笑して、真由羅は首を振った。 父は死に、母は再婚してカナダにいる。 兄弟はもともといないし、いわば天涯孤独だ。 見せたい人がいないのに、一度しか着ないウェディングドレスを作る気持ちにはなれなかった。
  和馬はふっと息を吐いた。
「そうか…… じゃ、レストランでお祝いの食事でもして、後は俺が書類を出してくるよ。 それでいいか?」
  真由羅はふたたびうなずいた。 心が半分浮いているような表情で。

 エレベーターで会った3日後、車内で真由羅に電話がかかってきた。 たまたま廊下を歩いていたので、壁際に寄って電話を開けると、和馬からだった。
「昨日、やっちゃってね」
「何を?」
「子供とケンカ。 怒って出てった」
「えっ!」
「だいじょうぶ。 大学の近くにいる友達の部屋に転がりこんだらしい。 まあ、ちょうどいいというのも何だが、今日か明日、うちに来れるか?」
「……ええ」
  後味が悪い。 真由羅のためらいを感じ取ったのだろう。 和馬は約束した。
「あいつにアパートでも借りてやるよ。 そのほうが向こうもいいだろう。 気にするな。 わかった?」
  頭が重くなった。 人を傷つけてまで彼の家に入りこみたくない。 でも、そんなきれい事を言って、別れる決意もつかなかった。

 広い家だった。 四谷の住宅地だから、庭はちょっと狭いが、きれいに手入れされている。 間もなくこの家に落ち着けるのだと思うと、やはりうれしかった。
  1階の居間は少し昔風で、クラシックな家具が並び、おきまりのピアノが隅を固めていた。
「先週調律してもらった。 真由は音大出てるんだから、寿退社したらここでピアノ教えたらどうだ?」
  気を遣ってくれる。 それはうれしかったが、どちらかというと引っ込み加減の真由羅には、社交的でないとつとまらないピアノ教師は気が進まなかった。
「私だけが弾いたらいけないかな」
「もちろんいいよ。 それで退屈じゃないなら」
  和馬は余裕を感じさせる笑みを浮かべた。

 駅まで車で送るというのを、道筋を覚えたいからと言って断り、真由羅は夕暮れの街に出た。 海老原の家から四谷の駅まで、徒歩で15分ぐらいと聞いた。 それで、のんびりと商店街を歩いていると、こじんまりとしたたたずまいの店先にドラ焼きが並べてあるのが目に入った。
「ひとつ120円」
  見ていると、口の中に唾が溜まった。 祖母に育てられた影響で、子供のころから和菓子には目がない。 2つ買おうとして、思い切って3つにした。 太るぞ、という内心の声を無視して。
  紙袋に入れてもらって、大事そうに胸に抱えて歩き出したとたん、聞き覚えのある声がした。
「全部ひとりで食べるんですか?」


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