表紙

面影 97


「ふうん、なんか店の名前までがゆき子さまに縁のあるような」
「夏の雪ではすぐ溶けるじゃろ。 ほんの浮気心じゃ」
「いい語呂合わせだ、ハハハ」
 笑ってはみたものの、お初はすっきりしない様子で、さらに呟いた。
「料亭の女将か。 進藤さまは気性の素直なお方だから、手玉に取られてるんじゃないだろうね」
「どうじゃろか。 わしにはわからん」
 そこまで聞いて、ゆき子は忍び足で廊下を離れた。 離れの襖をそっと閉めると、後ろ手に寄りかかって思いにふけった。
――進藤さまは気立てのまっすぐなお人だが、決して世間知らずではない。 梅野閣下の秘書の中で、もっとも心利いた者として信頼されていると聞いた。 姿もあの通り、凛としているし――
 真剣に好いて好かれた仲だと思いたかった。 色町の女狐に騙されているとは考えたくなかった。 どこかに一抹の寂しさはあったが、ゆき子は芯から進藤の幸せを願っていた。


 如月(二月)に入ると、日の光は少しずつ暖かさを増し、毎朝砂利を持ち上げる霜柱も次第に低くなっていった。
 だが天候は油断がならない。 月の半ばに突然大雪が降って、街は半時間で真っ白に変わった。
 北国ではあまり見られない、ねっとりした牡丹雪だった。 近所の男衆に混じって、賀川もせっせと道の雪かきをした。
 昼食の後片付けを終えたお明が、盆を持って庭に出て、手を真っ赤にしながらきれいな雪の表面をすくい取り、南天の葉を耳に、赤い実を目に見立てて、雪ウサギを作った。
「まあかわいい。 風情があっていいわねえ」
 ゆき子がわざわざ廊下に出て褒めたので、お明はすっかり得意になった。
「玄関に飾っていいですか? こんなにかわいくできたんですから」
「これ、調子に乗るでない」
 お初が顔を出してたしなめていると、奥からどてら姿の進藤が姿を見せた。 手に細めのグラスと、白い液体の入った瓶を持っていた。
「これにな、砂糖を入れるんじゃ。 そいで、桶に雪と塩を混ぜて埋めておくと、セーキができる」
「せーき?」
 一同はきょとんとした。 進藤は少年ぽい笑顔を浮かべて説明した。
「ミルクセーキだ。 横浜でエゲレス人が食しちょった」
「ミルクって、牛の乳ですか?」
 お初がなんともいえない表情になった。
「病人が精をつけるのにはいいと聞いたけど、けもの臭いのはどうも」
「まあ見とれ」
 賀川が桶を運んできて、みんなでわいわい言いながら雪を詰め、塩をまき、手ぬぐいで覆って、できるだけ寒そうな場所に置いた。
「半日もすりゃいい按配に凍るはずじゃき」
「異人の食べ物はどうも……」
「何事も慣れじゃ。 牛の肉も慣れりゃよい味よ。 今度牛鍋屋に連れていっちゃろうか」
「わあ!」
 お明が興奮して大声を上げた。 賀川も顔中に口を広げて喜んだが、お初は顔をぎゅっとしかめて、目をつぶっただけでなく耳まで手でふさいだので、みんな大笑いになった。

 陽気になごんだその様子を、塀の陰から一対の眼差しがじっと見つめていた。 暗い怒りをはらんだその目は、騒ぎの中心で微笑んでいるゆき子の動作を、一瞬ももらすまいとするかのようにひたすら追い続けていた。



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