表紙

面影 96


 午後に会った進藤は、いつもと変わりなかった。 それで、珍しく彼が女とたわむれたらしいという記憶は、次第にゆき子の脳裏から薄れていき、平穏無事に松の内は過ぎた。

 睦月の晦日(一月三十一日)、進藤は頭痛で寝込んだ賀川を置いて、柳瀬と仕事に出かけた。 午後になってから痛みが和らぎ、退屈になった賀川は、台所に入りこんで世間話を始めた。
「そう言や、山田の殿様がやっと領地へ戻ったと」
「ああ、ゆき子様にご執心だったあの殿様だね」
 漬物樽をかき回していたお初が、額に皺を寄せた。 賀川は面白そうに膝を打って笑った。
「それがの、ゆき子様によう似た芸妓をな、大枚はたいて身受けして、すんぐ駕篭に乗せて連れいたと」
「へえ」
 お次は興味を持って、樽にさっさと蓋をすると、賀川の横に座った。
「ゆき子様によく似た人? どうやって見つけたんだろ」
「旦那様がな、なんとかせにゃあいかんちゅうてな、色町でお探しになったんじゃき」
 そこでつい調子に乗って、言わなくてもいいことまで口をすべらせた。
「ただ、初めに見つけた女子でのうて、次のになさったんじゃ。 最初のは、殿様にはもったいのうて、ご自分のにな」
 お次は目をむき、頭を覆っていた手ぬぐいをぐいと外した。
「はあ? 旦那様に思い人が? どんな人! いったいどこの誰!」
 賀川はたじたじとなった。
「いや、言っていいもんかどうか……」
「もうしゃべったじゃないのさ! つらつら白状おし!」
 にぎやかに騒いでいる声に引かれて、ゆき子は離れから出てきたが、響いてくる話の内容にはっとして、廊下の半ばで足を止めた。
 賀川は今ごろになって困っていた。
「まずいな」
「まずいのは三日前の飯と毛唐の顔だよ。 ゆき子様には内緒にしてあげるから、なんていう人か言いなさいって」
「うーん、せんかたない。 あのな、赤坂にある『なつゆき』なる料理屋の女将じゃ。 綾乃さんちう言うてな、まっことゆき子様によう似ちゅうよ」
 板壁に置いたゆき子の手が、ゆっくりと握りしめられた。 胃のあたりが微妙にしくしくする。 困ったような、複雑な心持だった。



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