表紙

面影 64


 張り詰めていた神経が一度にゆるんで、お幸はぐらりと前のめりになり、床に手をついて危うく体を支えた。
 大きく数度深呼吸をしてから、おせきが呟いた。
「ああ怖かった。 心の臓が胸から飛び出そうでした」
「見逃してくれたんだねえ」
 ふるえ声で、お幸は返した。
「運が良かった。 見つかったのがあの人で」


 その後の道中は、特に危険な目には遭わなかった。 二人は励ましあって街道沿いを歩き、少しでも怪しい人影を見かけると、さっと身を隠して難を逃れた。
 目まいがするほど空腹になった夕暮れ、お幸の視線が、畑の四つ角に小さく立つ道祖神の祠〔ほこら〕に止まった。
 疲れ切って震えがきていた足が、俄かにしゃんとなった。 声が上ずった。
「着いた。 着いたよ、おせき! ここが元吉村だ!」


 故郷は、落ち延びてきた二人を親切に迎え入れてくれた。 お幸一族の後をついで庄屋をしている坂口五平が二人をねぎらい、離れの二間を使わせてくれることになった。
 朝は雄鶏のけたたましい声で目覚め、昼間は家事をしたり、機織をして過ごす。 そんな静かな毎日が始まった。 名主一家はお幸を客として大事にしようとしたが、お幸は感謝しながらも、丁重に断った。
「遠い親戚が身を寄せていることにしておいてください。 扱いも居候並みでかまいません。 さもないと、お宅に要らぬ迷惑をかけることになります」
 この辺りはまだのどかで、敵兵の姿もほとんど見られなかったが、万一家捜しなどされた場合の用心はしておく必要があった。

 機織の先生は、おせきだった。 十二から本格的に習い始め、二十年後に夫と死に別れるまで、腕利きの織り子だったそうだ。
「ちっとも知らなかった。 そんな技があるなら、もっと早く教えてもらえばよかった。 寮にいるときは暇を持て余していたんだものね」
 お幸は勤めて明るく振舞い、整経から始まって経糸の掛け方、横糸の引き具合、模様の出し方と、じっくりおせきの手ほどきを受けた。




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