表紙

面影 2


 祭りの見物人目当てに、甘く味付けした水を売っていた行商人が、すばやくてんびん棒を外して少年に投げた。 それを受け取るために、縞の着物の袖を揺らして腕を伸ばしたとき、少年とお幸〔ゆき〕の目が合った。
 血走った瞳だった。 当時の競り合いは荒っぽく、前髪の少年だからといって手心は加えない。 容赦なく叩きつぶして一番乗りを狙う相手と、彼は闘わなければならないのだった。
 落とされた連中は必死でよじ登ろうとするが、人垣と敵方の引き手達に邪魔されて、なかなか台の上にたどりつけなかった。
 知らぬ間に、お幸は拳を握り、細い肩をいからせていた。 口を一文字に結び、丸い眼にあらん限りの力を込めて、少年に声なき声で叫んでいた。
――負けるな! 踏ん張れ! あいつらなんか、みんなぶち倒してしまえ!――
 できるとは思っていなかった。 ただ一人で怒号と罵りあいの中に残された少年がたまらなく気の毒で、胸がはじけるほど腹が立っただけだった。
 ところが、顔を真っ赤にして力んでいるお幸の斜め上で、少年はいきなり、思いがけないことを始めた。 長い棒の端をがっちりと掴むと、凄い勢いで振り回し出したのだ。
 その速さといったら、空中に茶色の輪の残像ができるほどだった。 太鼓のばちを手に、袖をまくり上げて台に乗り移ろうとしていた敵方は、この水車戦術に泡を食って急いで頭を引っ込めた。
 すかさず少年は、回転が止まらないように気をつけながら、もう片方の手で、台の上を転がる空とっくりを拾っては、正確に狙って相手方にぶつけた。
「いてっ、この野郎、飛び道具とは汚ねえぞ!」
「一人に大勢で打ってかかるほうが、遥かに武士の本分にもとるものぞ!」
 切れ味のいい声で叫び返すと、少年はようやく飾りの彫り物に取りついて登ってきた男に手を延べて、力強く引き上げた。
 形勢は逆転した。 少年にはやんやの喝采が送られ、中立だった見物人の男らが味方になって、相手の屋台を束になって揺らしはじめたので、勝負はすぐについてしまった。
 敵方の台からすべての勢子〔せこ〕が引きおろされると、少年は加勢してくれた行商人にてんびん棒を投げ返し、爽やかな笑いを見せた。
「世話になった」
 ひょいと受け取って、商人も笑顔を返した。
「お安い御用で」
 屋台は再び走り出した。 大路に土埃が舞い、勇壮な掛け声が遠ざかっていった。

 それからも、次々と屋台が現れ、小競り合いを繰り返して人々の歓声を誘った。
 だが、お幸はもう見ようとはしなかった。 ひとり、人波の動く方向に逆らって町並みを下り、船着場のほとりに出た。
 そこは無人だった。 川向こうを子供たちが駆けていくのがおぼろげに見えたが、すぐに遠ざかって消えていってしまった。
 お幸はふるえる息を吐いた。 全身がかっと燃えて、なかなか収まらない。 午後の陽射しがすべて、自分の上に集まった気がした。
 やがて、ぽっぽと顔が火照ってきた。 どうにもこらえられなくて、お幸はゆるやかに流れる川に身を乗り出し、あらん限りの声でわめいた。
「わ―――っ!」
 それでも足りなくて、二度、三度と全力で飛びはねた。 胸の奥に、大きな熱いものがしっかりと根を生やしたのが、自分でわかった。
――やればできる。 あの子だってできたんだ。 周り中が敵でも、肝を据えて、工夫して、一途にやりぬけば、何とかなる!――
 お幸は眼をぎゅっと閉じ、光の中で麦の穂のように揺れた。 空から降りてきた何ものかが、体に入って土性骨をずしっと支えた。
「私は、このお幸は死神なんかじゃない。 強い運勢に生まれついたんだ。 火の中で一人だけ生き残ったし、叔父さんに可愛がられて養女にまでしてもらえたんだ」
 腹に力がみなぎってきた。 お幸はしっかりと声を出して、最後まで言い切った。
「これからも生きてやる。 目配り気配りで、どんなことでもして、死んだお父っあん、おっ母さん、兄ちゃんや姉ちゃんの分まで、生き抜いてやる!」
 


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