表紙

面影 3


 間もなく家路についたお幸〔ゆき〕は、もう裏口からそっと入ったりせず、店の表から堂々と帰った。
 その意気込みが伝わったのだろう。 儀兵衛が急死してからそっけなくなったように思えた番頭が、振り向いてにっこりした。
「お帰りなさい」
「ただいま」
 明るく答えると、お幸は一段高くなった板の間に腰を下ろして、足をぶらぶらさせながら訊いた。
「今日はお祭りで、たくさん人が通るのに、どうして閉めたままなの?」
 番頭の治助〔じすけ〕の顔に、影が走った。
「売り声で頭が痛くなると、おかみさんがおっしゃるもので」
「開けないならここにいなくてもいいよ、きっと。 お社に夕祭りを見に行ったら?」
 天栄村の出で、真面目な上に律儀な治助はためらったが、そこへ戻ってきた手代の由吉〔ゆきち〕までが勧めたのでその気になって、丁稚ふたりに小遣い銭を持たせ、三人で出ていった。
 後に残って、元付帳を調べて掛売り高を記入している由吉に、お幸は尋ねた。
「おっ母さんがもし店をたたんでしまったら、私はここを出されるの?」
 由吉は筆を置き、賢そうな目でお幸をまっすぐ見返した。
「そんなことはありません。 お嬢さんは、このお店の養女として、ちゃんと人別帳に載っています。 跡継ぎなんだから、どーんと腰を据えておいでなさい。 わたしらも、できるだけ守り立てますから」
 ほっとして、お幸は顔中で笑った。 雇い人たちは、情けない有様のお栄に愛想を尽かし、これからはお幸中心にやっていこうと考えている様子だった。

 数日後に開かれた親族会議で、その決意ははっきりと示された。 長老格の桔梗屋義三〔ききょうや よしぞう〕は、番頭から頼まれて集まりを開いたらしく、背筋を立てて座れないほどだらけているお栄にきっぱりと言い渡した。
「あんたは嫁だ。 この稼業が嫌なら実家に戻って後添えの口でも探すといい。 幸い、店にはお幸という子が残っている。 わたしが後見人になるから、この子が一人前になるまで番頭の治助さんに任せて、店を切り盛りしてもらうことにする」
 お栄は、素早く首をもたげて、お幸を睨んだ。 錐でえぐるような視線だったが、今のお幸はもうひるまなかった。
 きちんと両手をそろえて畳につくと、お幸は親戚一同に深く頭を下げ、通る声で挨拶した。
「遠くからはるばる集まってくださり、ありがとうございました。 幸はまだ至らない娘ですが、帳付け・手習いに精進し、お店に恥じない修業を積んでまいります。 お引き立て、よろしゅうお願いいたします」
 やや舌足らずな口調で、とつとつと述べられた口上は、縁者たちの心を打った。 しっかりしている、賢いが出すぎずに可愛い娘だ、と口々に話しながら、親類たちは一段落ついてほっとして、矢柄屋を後にした。
 


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