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102 知らない名前


 ホールシー?
 アレックスは、わりと珍しいその名前を、身近で聞いた覚えがなかった。 それでわずかに微笑して首を横に振った。
「いえ、僕はニューヨークのオーウェルという者です」
  オーウェル、とつぶやいて、その紳士は眉を寄せた。 何かを思い出そうとしているらしい。 やがてその顔が、緊張の色を増していった。
  そわそわしながら、紳士は尋ねた。
「あの、テンプル氏をご存じかな? 大御所ではなく、デニーのほうなんだが」
  ロビンの父の名前が出てきたので、アレックスは驚いた。
「ええ、知ってますが」
「ここに来ていたでしょうか」
「さっき会いました。 でももう家に引き上げたかもしれません」
  紳士は、きちんとかぶっていたシルクハットを取り、パチンと音を立てて畳んだ。
「こういう格好はどうも窮屈でいかん…… おっと、言い忘れていました。 わたしはアイダン・リードという者で、医者をしています。 シカゴ大学でホールシーの親友でね」
「僕はアレックス・オーウェルです。 ところでホールシーとは?」
「そうか、あなたはお若いから彼を知らないんですね。 ホールシーはデニーの兄さんですよ」
  少し驚いて、アレックスは記憶をたどった。 デニーおじさんはこれまで、兄弟がいたとは一言も言っていないのだ。 だからロビンと同じく一人っ子だとばかり思っていた。
  アレックスを無遠慮なほど見つめながら、リード氏はつぶやいた。
「さっき横顔を見たとき、ホールシーが生き返ってきたのかと思いました。 だからつい話しかけてしまって。 正面から見てもよく似ていますよ」
  アレックスはうなずいただけだったが、横にいたルイーズの表情が微妙に揺れ動いた。


  すっかり機嫌を直して、化粧直しをしに行った妻を待つ間、ロニーを肩車して歩いていたロビンは、タキシードの裾を軽く引っ張られて振り向いた。
「やあ、ルイーズ!」
  とたんに顔がほころんだ。
「君と話したかったんだ。 でもアレックスが番犬みたいに張り付いていて、僕がそばを通るたびににらんでさ」
  ルイーズはぎこちなく微笑を返すと、小声でささやいた。
「お父様、まだこの会場にいらっしゃる?」
  ロニーを下ろして辺りを見回したロビンは、すぐにうなずいた。
「あの背の高い、ほら、今グラスを置いた、あれが父」
「ありがとう」
  すばやくルイーズが歩み去ろうとしたので、ロビンはがっかりした。
「あれ、行っちゃうの?」
「後でゆっくり話しましょうね。 このお屋敷に泊めていただくから、また会えるわ」
  優しい声は、そう言っている間もぐんぐん遠ざかっていった。

  町長の自慢話に付き合わされてあくびを噛みころしていたデニス・テンプル氏は、紺色のタフタの生地で上手に体型を隠した、うっとりするような美人に話しかけられて、思わず笑顔になった。
「はじめまして。 ルイーズ・オーウェルといいます。 アレックスの妻です」
「おお、これは」
  アレックスが幼なじみの女優と結婚したという話は、ロビンから聞いていた。 テンプル氏は真顔になって、やさしく挨拶した。
「あなたがアレックスを幸せにしてくれた人ですね。 わたしからもお礼を言います」
「まあ……」
  ルイーズはぱっと顔を赤らめた。
「ありがとうございます。 でもどちらかと言うと、私が彼に幸せをもらったほうで……」
  「仲のいいことだ」
  うらやましそうな口調だった。 穏やかで理知的なテンプル氏の顔を見ているうちに、ルイーズは決心した。 遠まわしではなく、はっきりと訊いてみよう。 ホールシー・テンプルとアレックスが、なぜ似ているのかを。
 


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