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92 最強の敵


 間の悪いことに、その日は雨だった。 それも上品な春の五月雨などというものではなく、まともに降りかかって足元ではねを上げる、本格的な大雨だった。
  だから大きな黒い傘に守られてはいても、アニーとサンディは大邸宅の玄関にたどり着く前にぐしょ濡れになってしまった。 せっかくアニーが見立てた、サンディのスマートなスーツとスプリングコートが台無しだ。
  しかし、当の本人がそのことを気にしている様子はなかった。 彼は誰の眼にもわかるほど緊張し切っていて服どころではなく、寒くないのに唇が紫色に変色していた。
  内心はらはらしながらも、アニーは明るく装ってサンディに頼んだ。
「ここのノッカー、やたらに高い位置にあるの。 ほらね。 叩いてもらえる?」
  歯の音が合わない雰囲気ながら、サンディはうなずいてノッカーを掴んだ。 だが、たぶん手がすべったのだろう、物凄い音を出して扉に打ち付けてしまい、やけどしたようにあわてて指を引っ込めた。
  すぐに扉がすっと開き、執事のウォーレンが姿を見せた。 前にも増して仮面のような無表情だ。 その気位の高そうな顔を見たとたん、サンディはつぼめた傘を手からすべり落としてしまった。
  急いで拾おうとしたサンディと、同時に手を伸ばしたアニーの額が思い切りぶつかった。 ふたりは頭を押さえ、ほぼ同時にウォーレンを見たが、訓練の行き届いた英国製の執事は、銅像のように表情を崩さないまま、一言口に出しただけだった。
「お待ちでございます」

  グレン・テンプルは書斎にいた。 デスクの端に浅く腰かけ、脚を伸ばして交差させている。 リラックスしているとも、相手を下に見ているとも言える姿勢だった。
  アニーを先に立てて入ってきた大柄な青年を見て、さすがの大実業家も、思わず目を見開いた。 金髪になったサンディは、父と激しく言い争って家を出ていった頃のジョーとほぼ同い年で、背の高さから目鼻立ちからそっくりだっのだ。
  口を固く結んで額に皺を寄せ、グレン・テンプルはゆっくりデスクから離れた。 そして言った。
「エリザベス、おまえ、見かけで男を選ぶのか?」
  先制攻撃だった。 まだ挨拶もしていないのにそんなことを言われて、アニーの眼が怒りに細まった。
「こんにちは、お祖父さま。 この人が私の婚約者、ダグラス・アルガー・サンダースよ」
  サンディはぎこちなく首を動かして頭を下げた。 グレンの頬を、冷たい微笑がかすめた。
「医者の卵か。 職業はともかく、中身は成り上がりだな」
「お祖父さま!」
  なんてむき出しに辛辣なことを! アニーは怒りで体が震え出した。
「恋なんて一時の感情にすぎない。 熱が冷めたとき、このじゃじゃ馬は君に物足りなくなって浮気を始めるかもしれんよ」
「するもんですか!」
  真っ赤になってわめくアニーを無視して、グレンは更に挑発を続けた。
「社交界はけっこう陰湿なところだ。 君に運ばれたワインだけ安物だったり、パーティーの招待状が、手違いと称してひとりだけ届かなかったりしたとき、君は耐えられるかね?」
「私がそんなことさせないわ!」
  ドラゴン並みに火を吹きそうな婚約者の横で、サンディは血の気を失った顔を伏せていたが、アニーがそう叫んだとたん、眼を上げ、まっすぐグレンの眼に視線を当てた。
 静かな声が言った。
「僕がこの人にふさわしいなんて、一度も思ったことはありません。 ただ、1つだけははっきり言えます。 彼女を愛しています。 15のときから、アニーは僕のすべてでした。 いいところも手に余るところも、全部好きでした……
  結婚なんか絶対許さないとおっしゃるなら、仕方ないと思います。 でも、彼女をあきらめたりしません。 そんなこと、できないんです。 何度もやってみたからわかります。
  彼女が望む限り、そばにいます。 形なんか、どうでもいいんです」
  グレンはしばらく無言で息をついていた。
  それからゆっくりデスクの引出しを開けて、見事な彫刻のある箱を取り出し、中から2本の葉巻を選んで、1本をサンディに渡した。
「ふるえているばかりかと思ったが、やっと骨のあるところを見せたな。 そう来なくちゃな。 好きな女を守れなくて、この世で何を守るというんだ」
  手のひらに載った上質のハヴァナ葉巻を、サンディは放心したように見つめた。 やがておそるおそる眼を上げたとき、アニーの満面の笑顔と、大きな眼にこぼれそうにたたえられた涙を見て、彼はようやく悟った。 自分が最大の試練に合格したことを。


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