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76 ジェーンの気持ち


「驚きましたね」
  聴診器を耳から離すと、医者のブルース・カイルは溜め息をついた。
「心音が安定している。 体重もここ一週間で2ポンド増えました」
  テンプル氏の顔に喜色がみなぎった。
「快復のきざしですか?」
「少なくとも体の方はね。 まあ、心と体はつながっているものですから、体力がつけば徐々に心も癒えてくるでしょう。 もう少しの辛抱ですよ」

  医師が帰ると、すぐにテンプル氏は二階に取ってかえし、ロビンのシャツを着せ直していたジェーンの手を両手でつかんで、強く振った。
「ありがとう! あなたのおかげだ。 無理を言って来てもらってよかった!」
  悲しげな微笑を浮かべて、ジェーンはぼそっと答えた。
「ロビンさんは自力で立ち直っているんです。 私はただ身の回りのお世話をしているだけで」
「他の人ではまったくだめだった。 こんな奇跡が起こせたのはあなただけだ」
  奇跡…… 身がよじれるほど苦しく、ジェーンは思わず顔をゆがめた。 わずかに食欲が増し、肉がついてきたといっても、まだロビンは藁のように軽い。 筋肉隆々で、はちきれそうな若さにあふれていた彼を知っているだけに、ジェーンには毎日が苦痛の連続だった。
  それでも密かな喜びはあった。 彼にはっきりした意識がないのを幸い、ジェーンは人目がないと始終ロビンを腕に抱いて過ごしていた。 軽く揺すったり、歌を歌いかけたり、まるで大きな赤ん坊のように、ジェーンはロビン、つまり彼女の大事なミッキーに話しかけていた。
  その午後も、デンプル氏が久しぶりに安心して外出したのを窓から見届けて、ジェーンはすぐベッドに上がり、ぼんやり座っているロビンを両腕にかかえた。
「こうやってると暖かい。 私はね、きょうだいが多かったから、あまり親にかまってもらった思い出がないの。 だからロニーは、私の坊やなんだけど、あの子はできるだけ抱きしめるようにしてるの。
  あなたには私の過去を何も話さなかったわね。 話せなかったのよ。 いろんなことがありすぎて…… 
  男の人と住んでたことがあったの。 2人の間には何もなかったんだけど、でもあなたに知られたくなかった。 他にも、酒場に勤めてたり、スリの手伝いをさせられたり、後ろ暗いことばかりなの。
  私はあなたにふさわしくない。 何があってもそれだけは確か。 あなたの意識が戻りかけたら、すぐ出ていかなくちゃ。
  でも、今はこうしていたい。 この冬が過ぎるまで、あなたのそばにいたい。 勝手な願いだけど、私の夢はそれだけ」


77 採用基準


 エリクソン総合病院では、本採用になるインターンを誰にするか、恒例の会議を開いていた。
  ジョーイとアニーはまず間違いないだろうというのが、巷の噂だった。 今年の採用枠は5人だ。 よその医大からもインターンは4人来ているから、そちらから2人は採られるだろう。 となると、残り枠は1人。
  フィービとサンディとどちらが優秀かというのは議論にならなかった。 2人とも真面目な努力家で、この2年間必死で仕事をしてきた。 甲乙はつけられない。 しかし、やはり男性というのは圧倒的に有利で、おそらくサンディが本採用になるだろうと予想がついていた。
  フィービは淡々と仕事をこなしていた。 むしろあせっているのはアニーの方で、いらいらしながら病院の廊下を行ったり来たり、何度も繰り返していた。
  フィービはもしこの病院に残れなければ、故郷に戻ることになる。 そうしたらたぶんもう二度と、ジョーイには会えない。 あんなに愛しているのに。 それに最近、ジョーイの方もまんざらでなくなっているのに。
  好きなら申込みなさいよ! と、アニーはジョーイに言いたかった。 だが上流階級に属するジョーイが、一存で婚約を決められない事情もわかった。 いまいましいが、アニー自身もその上流階級の一員だからだ。
  クソジジイ――この言葉で、何度ひそかに祖父をののしったことか。 最近グレン・テンプル氏はじわじわとアニーに接近し始めていた。 週に一度は分厚い封書を送ってくる。 初め好奇心で中を覗いてみたら、首の絞まりそうな蝶ネクタイをつけた青年の写真がどっと流れ出てきたので、あわてて暖炉にくべてしまった。
  それは、手近なところに住む《お坊ちゃん》たちの特製ポートレートだった。 ジイさまは、アニーにどうしても見合いをさせたいらしい。 どんなに説得しても、牧場の養子との結婚は許してくれないだろうな、と思うと、気が重かった。
  それでもアニーの決意はまったく揺るがなかった。 ジイさまがうるさいことを言いつづけるなら、西部に駆け落ちするまでだ。 シスコではまだ医者が足りないという話を聞いた。 オクラホマやネヴァダではもっと医者不足だろう。 どこでだって暮らしていける。 包囲されたら外国に逃げるまでだ。 たとえば、カナダやメキシコ、中南米にしようか……
  先走ったことを次々と空想していると、ジョーイが廊下を走ってきた。 やはりみんなの予想通り、本採用は彼とアニー、それにサンディで決まったのだった。

  その日の夕方、アニーは珍しくきちんと服装を整えて、病院の寮を出た。 行く先は、ニュースワンシーの南の端、高級住宅地の中でもひときわ大きくそびえ立っている、グレン・テンプル氏のお屋敷だった。


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