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73 罪の報い


 神の鉄槌、という表現があるが、部屋に入った瞬間、ジェーンの意識を襲ったのは、まさにそれだった。 樫のドアの横で、聖書に出てくる塩の柱のように立ったまま動けなくなったジェーンに気づかず、テンプル氏は、粗末なセーターと作業ズボン姿でベッドに座っているロビンに近づいた。
「ロビン」
  彼は答えなかった。 ずいぶんやせている。 頬のこけたその顔は、十字架にかけられたキリストの彫像を思わせた。
「どこを見てるんだ?」
  テンプル氏の声は弱々しかった。
「何が見える? わたしには隅のテーブルしか目に入らないが」
  どうやらロビンはベッドに座って、一日中部屋の薄暗い隅を眺めつづけているらしかった。
  ジェーンは何も考えられなかった。 ただ1つの言葉だけが、頭の中をぐるぐると駆けめぐっていた。
  (私のせいだ…… 何もかも私が悪いんだ……)

  テンプル氏が何を話しかけても、そっと膝に手を置いても、ロビンはまったく反応を見せなかった。 わずか5分で10年も老けた表情になって、テンプル氏はゆっくりとロビンの隣りから立ち上がり、ジェーンを訴えるような眼で見た。
「驚いたかね? 顔が真っ青だ。 ずっとこんな風なんだよ」
  いったんジェーンを控えの間に連れ出して、テンプル氏は説明を始めた。
「ソンムの戦いで負傷して病院に運ばれたらしい。 体の傷はわりに早く治ったんだが、このとおり、まったく口をきかない状態で、シェルショック(=戦争神経症)と診断されて、本国送還になった」
  彼はロビン・テンプルともミッキー・ステュワートとも違う名前で志願したので、コネと金のあるテンプル氏でさえ、見つけるのに今まで時間がかかったのだった。
  ジェーンの喉がかすかな音を立てた。
「……お世話します」
  たちまちテンプル氏の顔が輝いた。
「ありがとう! 恩に着ます!」
  あなたが私の正体を知ったら、その場でこの家からたたき出すでしょうに――ジェーンは恐ろしい立ちくらみの真っ只中で思った。

  衣類の収納場所やバスルームのありかなど、一通りのことを小間使いのレーナに教わった後、ジェーンはいよいよロビン・テンプル、彼女のミッキーの世話を始めた。
  部屋を暖かくして服を脱がせると、肋骨が浮き出ていた。 とたんにジェーンの眼に涙があふれ、どうにも止められなくなった。
  その後は、涙、涙だった。 パジャマに着替えさせても、髪をとかしても、ひとつひとつの動作に嗚咽をこらえるのがやっとの状態で、しまいにはすぐ近くにあるミッキーの襟首がかすんで見えなくなった。
  思えば、この地に来たのは少しでもミッキー・ステュワートを感じていたかったからだ。 彼がのびのびと育った土地で、面影を忍びたかった。 子供ができたと知ったときは本当にうれしかったのを、昨日のように思い出せる。 ロニーをミッキーのように育てたかった。 だから毎日頑張って働いてきたのだが……
  シェルショックの様々な症状を、ジェーンは見てきた。 爆撃に怯えて大きな音に耐えられなくなった者、止めないとどこまでも歩いていってしまう者、そしてすべてに無関心になって自分の殻に閉じこもってしまう者。
  泣きながら、ジェーンの指は意識せずにミッキーの金髪を撫でていた。 これだけは今も変わらない、柔らかな手触りだった。

  ミッキーは8時過ぎには寝てしまった。 泣きはらした眼をしばらく水で冷やした後、ジェーンは小間使いにうながされてよろめくように階下へ降り、テンプル氏と夕食を共にした。
  経過報告といっても、来たばかりでまだ何も言えない。 自然ふたりは黙りがちに食べていた。
  やがてジェーンは、おそるおそる尋ねた。
「あの……デュヴァル先生は息子さんが戻られたことをご存じですか?」
  テンプル氏は、複雑な顔をしてジェーンを眺めた。
「実はまだ……。 アニーは、何というか、人一倍元気なのでね、活気のありすぎる人間はいい影響を与えないと、かかりつけの医者が言うので。 それにあの子は、今田舎に戻っているし」
  ジェーンはほっとした。 自分のしたことの無残な結果を、アニーにはなるべく遅くまで知られたくなかったのだ。

  その夜、ニュースワンシー付近に雪が降った。 真夜中、足先が冷えてきて目を覚ましたジェーンは、隣室のミッキーが心配になって、急いで起き出した。
  主寝室は、広いだけに一段と氷のように冷えていた。 ミッキーを気遣って、ジェーンは暖炉に火を入れなおし、そっとベッドに近づいた。
  彼はベッドの端で、小さく丸まって寝ていた。 胎児のようなその姿を見ているうちに、ジェーンは我慢できなくなって、自分も布団に入り、動かないミッキーを背後から堅く抱きしめた。


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