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69 二重の喜び


 息ができないほど堅くルイーズの胴に腕を回して、アレックスは切れ切れに囁いた。
「行ってしまったと思った……それでも万に1つと思って探したんだ…… ルイーズ! こんな時間までどこにいたんだ!」
  驚きに驚きが重なって、ルイーズは考える力を失い、反射的に答えた。
「あの、お医者さんに」
「医者!?」
  一瞬棒立ちになったアレックスは、直後に我を忘れてしまった。
「ルイーズ、ああ、ルイーズ! どこが悪いんだ? 田舎を引っ張りまわして苦労させた俺のせいなんだな!」
  ルイーズはようやく万力のようなアレックスの腕から抜け出して、息を切らせながら言った。
「どこも悪くないの。 病気じゃないのよ。 これはつまり……コウノトリが運んでくるもので……」
  話しながら、ルイーズは赤くなっていた。
  アレックスの口が、かすかに開いた。 不規則な息の中に、とうとう、という小さな声が響いたような気がして、ルイーズは目を上げた。
  そのとたん、アレックスはルイーズの腋の下に手を入れて軽々とすくい取り、激しく、だが優しく、両腕で抱きしめた。
「本当かい? すばらしいじゃないか! 帰ってお祝いをしよう。 さあ、おいで!」

  アレックスの『お祝い』とは、シャンパンの小瓶と、ルイーズの好物の『シャトー・ミレー』のクッキーと、それから、静かだが心を打つ結婚申し込みだった。
「今まで長い間、自分一人を守るのに精一杯だった。 それどころか、君やクラレンスに守られっぱなしだったといってもいいぐらいだ。
  ようやく安全になったが、まだ気持ちは不安定だ。 俺はこれから、力の及ぶ限り君と子供を守る。 だから、俺の心を守ってくれ。 結婚してくれ、お願いだ」
  結婚…… ルイーズの眼前に、少女のころ、父が秘書をよこして迎えに来た夜に一度だけ、夢に描いた光景が揺れながら広がった。 教会での荘厳な結婚式。 礼服を着て腕を組み、共に歩いて彼女をアレックスに渡す父。
  ルイーズはすぐに答えられずに下を向いた。 バリーとの結婚はどさくさ紛れに、ろくに考えもせず決めた。 決めることができた。 たまらなく寂しかったし、クール(に見えた)バリーがかえって負担にならずに楽だった。
  だが、アレックスは違う。 ルイーズはアレックスを愛しすぎていた。 一度彼を自分のものと決めたら、二度と失えなかった。 いつも半ばあきらめていたから、彼のいない生活に耐えられたのだ。
  アレックスは身じろぎもしないで、ルイーズの答えを待っていた。 ルイーズは唇を噛み、泣きそうになりながら、やっとの思いで低い声を出した。
「アレックス。 私たち、子供の頃には考えもしなかった人生を送ってきたわね。 結局は、女優の娘が女優になり、財閥の長男が家を継いだわけだけど」
「なぜ継いだか考えた?」
  アレックスの声は、妙に静かだった。
「君が国境まで俺を迎えに来たからだ。 そして、バリー・テイラーとは恋愛結婚じゃないと口をすべらせたからだ」
  ルイーズは思わず目を動かしてアレックスの視線を捕らえようとした。 彼の眼は、家出した夜と同じ、暗い滝壷のように底なしの深さをたたえていた。
「俺は彼から君を奪うつもりで帰ってきた。 相談相手になったのも、自分を押さえてキスひとつしなかったのも、全部考えに考えてやっていたことだ。
  君の心を得るには、正しくなくちゃならない。 君がバリーよりも俺を頼りにするようになれば、そのときこそさらってしまおうと決めていた」

  ルイーズは、化石のように動きを止めた。 耳元で、血液がどくどくと音を立てて流れた。 アレックスは、ナイフのように鋭く胸に食い込む眼でルイーズの視線を縫い止めながら話しつづけた。
「君は、俺のただ一人の家族だ。 ずっと昔から、君の知らないはるか昔から、俺はそう思ってきた。
  君が初めてダンス学校に通いはじめた日も、最初に眼鏡をかけた日も知っている。 何度もやけっぱちになりかけたが、そのたびにこっそり君を見に行って元気を取り戻した。
  君は俺の希望の糸だったんだ。 何とかして生き延びれば、いつかはこの子と話ができる。 友達にもなれるかもしれない。 それ以上のものにも……
  だから逆に、未成年のうちは絶対に君に近づかないようにしていたんだ。 君が俺の秘密の宝物で唯一の弱点だと、敵に悟られたら最後だからだ。
  友達も作らないようにしていた。 不良だと噂を立てられたのを逆手に取って、付き合いを悪くした。 それでも人なつっこくそばに来たのは、あの呑気なロビンだけだったよ」
  アレックスは、かすかにふるえる指でルイーズの前髪をかき上げた。
「みんな俺を怖がってた。 特に女学生の評判は最悪だった。 だのに君は、無邪気で妙に度胸のいい君は、校門の近くで俺に話しかけようなんてして……
  たまげて、口もきけずに逃げてしまったが、あの晩は眠れなかった。 それからは君のことばかり想っていた…… だから、いじめられているのを見たときは、どうしても我慢できなくなって飛び出してしまった。
  どうだい、ルイーズ? 君はあの頃、俺を信じきっていたが、本当はそばにいて一番危険な存在だったんだよ」


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