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68 放浪



 瞬時にルイーズの心は決まった。 ためらう理由はどこにもなかった。
「ええ、行きましょう」
  あまりあっさりOKされたので、アレックスの方がたじろいだぐらいだった。

  1時間後、2人は汽車に乗っていた。 ルイーズは何も考えず、身ひとつでアレックスと来てしまったのだ。 これは世間的に考えれば、れっきとした駆け落ちだった。
  どこに行って何をするのか、ルイーズはアレックスに尋ねなかった。 そのぐらいルイーズは彼を信じていた。 2人は座席に手を取り合って座り、どちらも無言でじっとしていた。
 
  半日ほど乗って、二人は小さな駅で降りた。 そして、駅のすぐそばにある小さな宿屋に泊まった。
  宿帳にアレックスは、オーウェル夫妻と書き込んだ。 亭主は、作業服姿のアレックスと、メルトンの上等な服を着たルイーズとを、うさんくさげに眺めたが、別に文句は言わなかった。
  宿で出た食事は、粗末ではあったがおいしかった。 9時に小さな部屋に戻ったルイーズは、はしゃいでベッドに飛び乗って揺すった。
「マンモスみたいに大きいわ。 これならよく寝られそう」
  ポケットを調べていたアレックスは、ゆっくり向き直った。 厳しい顔立ちが引きつって青い。 ルイーズがはっとして眼を見張ったとき、アレックスは足にバネが入っているように一跨ぎで部屋を横切り、ルイーズの上に激しく覆いかぶさった。

  明け方、喉の渇きを覚えて、ルイーズは眼をさました。 すぐ目の前に、浅黒い大きな体が規則正しく上下して、軽い寝息を立てている。 その体に、ルイーズは堅く腕を巻きつけ、顔を埋めるようにして眠っていたのだった。
  全身が弛緩する柔らかいけだるさの中で、ルイーズは考えた。 これが幸福感というものだろうか。 バリーとの夜にも喜びはあったが、終わればそれまでだった。 バリーは彼女を離して、背を向けて寝てしまった。 しかしアレックスは幾度もルイーズにキスし、抱いたままで気持ちよさそうに眠り込んだ。 それまではバリーには考えられない激しさだったにもかかわらず。
  本当にあったんだろうか。 夢だったんじゃないだろうか――ほんのり顔を赤らめながら、ルイーズは数時間前を思い出した。 アレックスが炎のようにぶつかってきて、全身を焼き尽くしてしまったときのことを。
  嬉しかった、アレックス! これで2人でしばらく楽しく過ごせるわね――ルイーズは、ぐっすりと眠っている愛しい顔にほほえみかけ、そっと手を伸ばして枕元の水差しを取った。


 2人の放浪は、思ったより長くなった。 気がつくと秋は終り、悪夢の戦争がようやく終息して町は物悲しい幸福にしばらく包まれた。
  それでもまだ2人はさまよっていた。 雪の季節が過ぎ、春真っ只中になるまで。
  ニューヨークでは、ルイーズの失踪を騒いでいるらしかった。 だが、ルイーズは雑誌で自分の記事が面白おかしく書き立てられているのを見ても何とも思わなかった。 代役はいくらでもいるし、その連中は皆、ルイーズがいないことで喜んでいるだろう。 新しいスターが生まれる。 そして、ミッキーと同じように、ルイーズも過去の人になるのだ。
  こうやって流れ歩いているのを、ルイーズは楽しんでいた。 明日のない日々の奇妙な不安と、肩の荷物を下ろしたような身軽さ、安堵感とが一体になって、不思議なスリルのある毎日だった。
  アレックスは限りなくやさしかった。 2人は喧嘩ひとつせず、昼間はホームレスの兄妹のように、夜は情熱に溺れたアルカディアの住人のように寄り添い、抱き合っていた。
  でも、こんな日々は長くは続かない、とルイーズは覚悟していた。 いつかは2人とも現実に戻っていかなければならないのだ。

  もしかすると今がそのときかもしれない、とルイーズはその朝考えていた。 なぜかというと、1週間ほど前から体調が悪く、これ以上アレックスの旅についていけないような気がしてきたからだ。
  食べ物がまずいし、目まいがする。 ときどき吐き気に悩まされることさえあった。
  こんなことでもないと、彼をあきらめられないから、とルイーズは自分に言い聞かせ、近くの医師に行くことにした。 心は重かった。 アレックスは珍しくルイーズを置いて出かけていた。 仕事を人に任せているとはいえ、たまには指示を出さなければならないことがあるのだろう。 だから今が、診療を受けに行く数少ないチャンスなのだった。


 2時間後、公園のベンチに座りこんで、ルイーズは放心状態になっていた。
  子供だって……? 赤ん坊……甘く湿った匂いのする、か弱くて柔らかいもの……二度と望めないと宣告された小さなものが、今この瞬間、自分の中に宿っているなんて……!
  茫然自失の状態が過ぎると、ルイーズはそろそろと体を動かし、おっかなびっくり立ち上がってみた。 今度こそ流産できない。 そんなことになったら耐えられない! 夢そのものの喜びの中で、ただ1つの気がかりは、この事実をどうやってアレックスに伝えようかということだった。
  彼が子供を好きかどうか、ルイーズにはわからなかった。 義務感の強い人だから、自分の子供が生まれると知ったらすぐ、責任を取ると言い出すに決まっている。 だがルイーズは、子供ができただけで幸せだった。
  アレックスが本気で望むときだけ話を聞こう。 でも、正式に結婚できなくても、ちっともかまわない。 私だって生まれる前から父がいなかったし、母に愛されなかったが、何とか無事に育った。 この子もきっとしっかり育ててみせる。 心から愛して、大切にして!
  ゆっくりと慎重に一歩踏み出したとき、つむじ風のようなものが耳元をかすめた。 そして、まったく不意に、がっしりした腕が背後からルイーズに巻きついた。
  一瞬ルイーズは、心臓が止まったかと思った。 すぐに相手が誰か悟っただけに、余計腹が立った。 こんな大事なときに、ふざけておどかしたりして、もし万一のことがあったら……
  振り向いて怒ろうとして、ルイーズは体をぎゅっと引きつらせた。 熱いものが首筋に落ちたのだ。 幾滴も幾滴も続いて落ちる涙に、ルイーズは言葉を奪われてしまった。


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