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62 去っていく人


 母が帰った後、ルイーズはぐったり疲れて、這うように寝室へ入った。 そして、泣きながら眠りこんだ。
  真夜中頃、人の気配で眼がさめた。 だが、泣き過ぎて瞼が開かない。 仕方なく、眼をつぶったままじっとしていると、指がそっと頬を撫でるのが感じられた。 やさしい仕草だった。 指は、涙の跡をたどったのち、ゆっくり頬を伝って首筋に移動した。 そして、ほんの数えるほどの間、ルイーズをしっかりと抱きしめた。
  腕はすぐ離れた。 ルイーズは、痛む頭で考えをまとめようとしたがまとまらず、じきに再び寝入ってしまった。
 
  翌朝、二日酔いに似た気分で、ふらふら起きかけると、サイドテーブルに紙片が見えた。
『ねぼすけ
    ちょっと出てくる。 チャーリーに電話するのを忘れないこと。    バリー』
  普段どおりのメモだった。 昨夜の出来事は夢にちがいないと、ルイーズは思った。


 だがそれは、夢ではなかった。 その夜、0時を過ぎてもバリーは戻らなかった。 そして次の日の朝、疲れた気分で起き出したルイーズは、いつも台本に書き込みを入れるときに使う机の上に、分厚い封筒がきちんと置いてあるのを見つけた。
  最初に感じたのは胸騒ぎだった。 引ったくるように封筒を取り上げたはいいが、ルイーズはしばらく中を見ることができず、胸に当てたまま行ったり来たりした。 ようやく意を決して開くと、血の気の引く言葉が見えた。
『さよなら、ルイーズ……』
  瞬間的に、ルイーズは手紙を放り出した。 何枚もの便箋が、開いた扇のように床に散らばった。
  その様子を眺めながら、ルイーズは自身も木の床にゆっくりと座りこんだ。 大事なバリー。 頼りにしているバリー。 こんな風に行ってしまうなんて、あんまりだ……
  ルイーズの眼は虚ろに便箋を横切り、いくつかの文字を断片的に読み取った。 船……もしかすると……下町……ロンドン……
  ロンドン? 懐かしい地名に、ルイーズは我にもなく焦点を合わせた。 バリーはロンドンに行ったのだろうか?
  改めてルイーズは紙を集め、一語一語噛みしめるように読み始めた。
 
『さよなら、ルイーズ
  何か君に残せる物があるかと丸一日考えた。 でもこの家と、銀行に預けてある金しか思いつかなかった。 結婚指輪を返すべきなんだろうが、これはどうしても持っていたいんだ。
  僕は戦場に行く。 イギリス人としての義務だし、この場合の一番いい解決法だと思う。 ミス・グロリア・ケントは僕を調査させている。 容赦ない人だから、調査結果を洗いざらい君に話すだろう。 そうなる前に、僕自身の手で、ここに書いておくよ。
  僕の本名は、ハリー・ホジキンス。 ロンドンの下町の、小さな居酒屋で生まれた。 きょうだいは6人。 僕は3番目だ。
  母は働き者だが、父は酒飲みだった。 いろいろ気にくわないことがあったんだろう。 典型的な貧乏人の子沢山だったからな。
  僕には兄と姉がいた。 兄は早くに家出して行方知れずになった。 姉は母に似て真面目で、子供のころから奉公に出て、弟や妹たちを学校に通わせた。
  特に僕には期待をかけていた。 僕だけが、きょうだいの中でただ一人、完全な白人に見えたからだ。
  こう書けば、悟りのいい君にはぴんと来ただろう。 僕の母は、黒人とフランス人のハーフだったんだ。 母はとても美人だった。 だが髪はちぢれていたし、色も浅黒かった。
  母が早死にした後、姉のデイジーは決心した。 他の子はどう見てもアフリカ人の特徴がはっきりわかる。 ということはイギリスでの出世は不可能に近いということだ。 それでデイジーは偏見の比較的少ないフランスに渡ることにした。
  そのとき、僕だけは父の元に置いていった。 居酒屋を売って他に移りなさい、白人の親子としてまっすぐ生きなさい、と言い残して。
 
  それで僕は、商店の使い走りから始めた。 身分の壁を破って上に行くにはどうしたらいいか、じっくり考えた。 初等教育しか受けていないのは致命的なハンデだ。 人付き合いが悪いから商人にも向かない。 だが、店の命令で手袋やスカーフを届けに行くたびに、かわいいとか声がきれいだとか言われて、召使頭や女主人に暗い部屋に引っ張り込まれそうになるので、自分に使える手はこれしかないと思いついた。
  つまり、僕は金持ちのペットになったんだ。 気取って言うんじゃないが、嫌な仕事だった。 ドブから抜け出すための踏み台と思わなければとてもやっていられない代物だったよ。
  相手のマダムの体面上、僕は役者ということになっていた。 そのうち、本当に役者になってやろうと考え始めた。 下町なまりを短期間で直せたことが自信になったんだ。
  でも、芝居は一筋縄ではいかない。 おまけに、仲がばれて、マダムの亭主が人を雇って、僕のデビューを野次でめちゃくちゃにしてしまった。
 
  こういうことだったのさ。 君には想像もできなかっただろう? だが、もう少し我慢して読みつづけてくれ。 あと少しだけ。
  僕は女にこりごりした。 イギリスにもだ。 父が飲んだくれて死んだのを機会に、アメリカに渡ることにした。
  別に希望があったわけじゃない。 ただ、ロンドンから遠ざかりたかっただけだ。
  その船の中で、僕は君に会った。 まじめくさった顔をして、僕を《飛び込み》から救おうとした君…… 覚えてないだろうね。 僕は忘れたことはない。 真っ白で、肩にレースのついた服を着ていた君の姿が、今でもはっきり目に浮かぶんだ。
  正直に言うと、飛び込むつもりは全然なかった。 いやな思い出を海に捨てて、酔いをさまそうと首を突き出していただけだ。 君が真剣に僕を助ける気でいたから、間の悪い思いをさせたくなかったんだ。
  後で君の名前を調べた。 電報の宛て先も見てしまった。 だからニューヨークに住みついて、アルバイトしながら演劇を一からやり直したんだ。 君と同じ道を歩いているのが楽しかった。
  君にはそういうものがあるんだ。 言葉には言い表せない不思議な磁力のようなものが。 そばに行くと心が温かくなる。 忘れられなくなってしまうんだ。
  それでも、ミッキー・ステュワートに嫉妬したことはなかったよ。 うらやましく思ったことは確かだが。 君は僕の手の届かない人だった。 同じ劇団で、顔を見ていられるだけでよかったんだ。
  だが、愛していると悟られるわけにはいかなかった。 それでわざと突っかかったり、意地悪を言ったりした。 下手な芝居じゃなかったみたいだね。 君はたぶん、少しも僕の本心に気付いていなかったようだから。
  ルイーズ、愛しいルイーズ、僕がなぜ子供をほしがらなかったかわかっただろう? ピンキー(白人に見えるハーフの人)の子供は、親よりずっと肌が濃く生まれることが多いんだ。
  産み月になったら、君にすべてを打ち明けるつもりだった。 それがだめになって、君が悲しんでいるのを見ると、胸がしめつけられた。 打ち明けても、打ち明けなくても、苦しめるだけなんだから。
  本当にすまなかった。 君は僕を恨むだろうか。 勝手な考えだが、たぶん憎みはしないだろう。 君は並みの女性とは違うからだ。 いつか僕を許してくれる日が来ればいいと思う。 君の幸せを心から祈る。

バリー』

※ アメリカでは本名でなくても結婚証明書は有効だそうです。〔少なくとも第一次大戦頃は確実にそうでした〕



 
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