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58 追いつめられて


 髪を中途半端に伸ばし、一段とむさくるしくなったサンディは、静かな、ほとんど苦痛さえ感じさせる声で言った。
「すまなかった。 僕には逃げる権利はない。 これからの道を選ぶ資格があるのは君で、僕じゃない」
  朽ちかけた大木のように、かすかに揺れながら立っている青年を凝視しながら、アニーは意識せずに考えていた。 初めから、そう、初めて会ったときから、この若者にはロビンと決定的に違う点があった。 哀しみ、寂しさ、そして背後に横たわる得体の知れない暗闇。 今こそその暗黒を知るときだ、とアニーは感じ、ゆっくりと恋人に近づくと、緊張を隠せない声で、早口に尋ねた。
「サンディ、これまで訊けなかったけど、初めて訊くわ。 なぜテンプルのおじさまが嫌いなの?」
  一瞬サンディの頬に痙攣が走った。 だが彼はまっすぐアニーを見つめたまま、抑揚のない声で答えた。
「嫌いじゃない。 そういうことじゃないんだ。 僕の口からは絶対に言えないが、君と一緒にいれば、きっと誰からか耳に入る。 君は強い人だ。 でもきっと……」
  乱れた息を吸い込むと、サンディは努力して言葉を終えた。
「ともかく、僕は君にふさわしい人間じゃない。 うちの父親には婚約を話して喜んでもらったが、君の家の人たちに会いに行けなかったのも、その自覚があったからだ。 君が婚約を取り消したいというなら従う」
「喜んで従うんでしょう?」
  アニーも努力して、氷のような声を出した。
「わけもわからずに取り消したりしないわ、私は。 あなたが何を隠しているのか知らないけれど、どうしても話せないというなら、わかるまで待つわ。
  病院には、私が勝手に、家族が急病で取るものもとりあえず帰ったと言っておいたから、すぐ復帰できるわよ。 ここにいて。 ここで私のそばにいて」
 


59 事故

「だからここはもっとめりはりを効かせて歌いたいんです」
「ダニロヴィッチは貴族だぞ。 下々の労働者のように大声は出さないんだ」
「活発な性格のはずです。 退廃的じゃないと思います!」
「またやってる」
と、コーラスの一員が隣りにささやいた。
「バリー・テイラーは敵を作る名人だな」
「自己主張が強すぎる。 イギリス人はみなああかな」
「僕の知ってるパントマイム役者はロンドン生まれだが、すごく気が弱いぜ」
「あいつ、そのうち夜道で頭を殴られることになるぞ」
  本当にそうなるかもしれない、と、下手で舞台稽古の出番を待っていたルイーズも思った。 4日前、必死に怒鳴り合って出征を止めてから、バリーは一段と機嫌が悪く、周り中に当り散らしている。 もう私の手にはおえないかもしれない、とルイーズは思い始めていた。
  まだ納得せず、腕組みして台本を見つめながら、バリーは舞台の中ほどに歩み出た。 そのとき、舞台の一部がすっと下に下がった。
  まるで罠のように黒い穴が口をあけたのを、ルイーズは目というより本能で見てとった。 そして昨日、バリーが大道具係と大喧嘩したばかりなのを思い出した。
  急いでやってきて袖を掴んだ妻を、バリーは誤解した。 またお説教に来たのだと考え、うるさそうに払いのけた。
「放っといてくれ!」
  舞台の裾にいた大道具係が真っ先に、悲鳴に近い叫び声を上げた。
「やめろ!」
  だがもう手後れだった。 身重で重心が不安定だったルイーズは、ぐらっとよろめき、何がなんだかわからないバリーの目の前で、奈落の底に落ちていった。


 壁を伝いながら、ゆっくりゆっくりバリーが病院の階段を下りてくると、待ちかねていたように受け付けが呼びかけた。
「あの、テイラーさん。 またあの男の方がみえました」
  バリーは顔を動かさず、目だけ受け付けの女性に向けた。
「赤い薔薇を持って?」
  受け付けはうなずいた。
「いつもと同じです。 花束を置いて、マレーさんの容態を尋ねて、帰っていかれました。 お名前を訊いても答えずに」
  うつむくと、バリーは口の中で呟いた。
「そう……」
  老人のような足取りで門から出ていくバリーを見送りながら、受け付けは首を振った。
「かわいそうに、疲れきってるわ。 奥さんに命を助けられたのはいいけど、代わりに赤ちゃんをなくしちゃね」


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