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49 説得


 《サンディ》の喉が音を立てて鳴った。
「それじゃ……」
  婦人は、自動人形のようにうなずいた。
「一通も読んでいないわ。 まるっきり」
「そんな……」
  次第に血色を失い、やがて青筋が盛り上がった男の顔を見て、婦人ははっとして再び手を掴んだ。
「アレックス、過去の話はやめましょう。 未来のこと、これからのことを考えましょう。
  ね、アレックス。 あなたは25よ。 人生はこれからだわ。 長い間苦労して疲れているでしょうけど、もう一度だけ元気を出して。 ニューヨークの警察か市役所に名乗り出るだけで、失踪は無効になるの。 だからお願い」
  《サンディ》は彼女の顔を両手ではさみ、食い入るように見入った。 それからわずかに微笑んで、額に唇をつけた。
「帰るよ。 約束する」
  その目はうっすらと充血していた。 口元に限りなく優しい微笑が浮かんだ。 指先で軽く相手の頬をはじくと、彼はやや早口で言った。
「さあ、めがねちゃん。 こんなところに長居は無用だ。 4時に汽車が出るから、すぐお帰り。 送っていこう」
「いいえ」
  婦人も早口になった。
「そんなことしたらかえって目立つわ。 私は大丈夫よ。 これまでだって大丈夫だったでしょう? それじゃアレックス、ニューヨークでね」
「ああ……ありがとう、めがねちゃん」
  背伸びして《サンディ》の頬にキスすると、婦人はヴェールを下げ、音もなく部屋を出ていった。

  アニーは息を殺していた。 数秒後、どしんという大きな音がした。 思わずアニーが爪先立ちしてまた覗くと、《サンディ》は床に膝をついてベッドに顔を伏せていた。 広い肩が波打つのを見たとたんに、アニーはあわてて視線をそらし、足音を忍ばせて裏庭を離れた。


 埃の舞い上がる小さな停車場で、ルイーズはぼんやり立ち尽くしていた。 来てよかったという気持ちと、これでもっと苦しくなるという不安が交錯して、胸が不規則に鳴った。
  昨日、思わぬ訪問者があった。 懐かしい運転手のクラレンスだ。 相変わらず無口で実直な彼は、帽子を手でこねくり回しながら、劇場の裏口でルイーズに話した。 このままではアレックスの市民権がなくなること、彼を説得できるのはルイーズしか考えられないことを。
  ぎらぎらと日の当たる停車場なのに、ルイーズは身震いした。 早くここを離れたい。 さもないと帰りたくなくなってしまう。
  そう思いながら、もう予定時刻を過ぎた列車を求めて線路をのぞいたとき、ぐらっと前にのめった。 つかまるものがなかったので、ルイーズはそのまま、どさっと線路に倒れ、弾みで眼鏡を落としてしまった。
  あわててルイースは周りを手探りした。 そのとき、柔らかい手がルイーズの手を取って助け起こした。 もう一方の手が眼鏡を渡してくれたが、ルイーズが口の中で礼を言って受け取ったとたん、相手は棒立ちになり、突拍子もない声を上げた。
「わっ! ルイーズ・マレーさん!」
  急いで眼鏡をかけ、相手に目をやったとたん、ルイーズも思わず声を出した。
「まあ、アニー・デュヴァルさん!」
  2人はあっけに取られて見つめあった。
  先に気を取り直したのはアニーの方で、彼女はルイーズの袖に手をかけると、懸命に言った。
「汽車が来るまで、ちょっと話していいですか?」
「ええ、もちろん」

  2人はがたがたするベンチに並んで座り、話し出した。
「ロビン、つまりミッキーのことなんですけど、劇団を去るとき、どんな様子でした?」
  ルイーズは何とか意識をまとめようとした。 アレックスのことで頭が一杯で、ミッキーの顔さえぼやけてよく思い出せない。 それでも努力して答えた。
「やせてました。 元気がなかったと思います。 でも落ち着いていて、にこっとして、散歩に行くみたいに、じゃ行ってくるよって」
  ロビンらしい。 アニーは、昔から演技力があってなかなか本心を見せなかった又従兄弟を、辛い気持ちで思いやった。
  気がつくと、ルイーズが遠慮がちに見つめていた。
「あの、アニーさんはなぜここに?」
「ええと」
  困って、アニーはできるだけ話をぼかした。
「人探しに」
「ああ……私と同じですね」
  どちらも本音を言えないうちに、列車が駅に入ってきた。

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