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44  診療所にて



 3月、宿直でカルテの整理をしていたジェーンは、ある名前を発見して、あやうくインクを倒してそのカルテをだめにしてしまうところだった。
  《マイケル・ステュワート。 年齢26歳。 イリノイ州デトロイト出身。 イタリアにて負傷》
  18号室だわ、とジェーンはわなわな震えながら確認した。 いても立ってもいられない。 すぐに宿直室を出て、廊下を小走りで進み、18号室の扉をそっと押し開けた。
  カルテによると、マイケル・ステュワートは脊髄損傷で下半身麻痺ということだった。 ジェーンは、どうしても震えをとめることができなかった。 麻痺なんて! すらっとした、足の長い、走る姿の美しかったミッキーが……!
  でも、生きていてくれただけでいい、とジェーンは手を握り合わせて思った。 こうなってしまったらあの恐ろしい姉妹でも邪魔はしないだろう。 ミッキーは私だけのものだ。
  自分がどんなに身勝手で、あの金持ち夫人姉妹に優るとも劣らないほど利己主義かということは、ジェーンにもよくわかっていた。 自分を犠牲にするという美名のもとに、彼女が傷つけたのは他ならぬミッキーだったのだ。 身を引くなんでバカだ、と言ったアニーの言葉が、ずっとジェーンの胸を切り刻んでいた。
――ミッキー、今度こそ結婚しましょう。 私があなたの手足になるわ――
  ジェーンは涙を懸命にこらえながら、若者をすっぽり覆い隠した毛布の傍にひざまずいた。
  青年は寝苦しそうにうめきながら、毛布をはねのけた。 ジェーンは急いで手を添えて直そうとした。
  その瞬間、ジェーンは崖から落ちたような気持ちになった。 枕の上で苦しげに首を左右に振っているのは、まったく見知らぬ顔だったのだ。
  それは、細面のデリケートな顔だった。 こげ茶色の髪が枕に散らばり、額に汗がにじんでいる。 ジェーンは失望と安堵が入り混じった気持ちで青年を見やった。
  マイケル・ステュワート。 平凡な名前だから、すぐ近くに住む同姓同名の人間がいたのだ。
  間もなく、深い同情がジェーンの心を占領した。 この青年にも恋人がいるかもしれない。 親だっているだろう。 一生立てない体になって、本人も親族もどんなに悔しいことだろう。 ジェーンはそっと毛布をかけなおし、ハンカチを出して、若者の額に光る汗を拭った。
  青年の眼が開いた。 瞼の厚い茶色の瞳が、いぶかしげにジェーンにそそがれた。
  ジェーンは彼にほほえみかけ、ささやき声で言った。
「喉がかわいているんでしょう? 水を持ってきましょうか」
  青年はうなずいた。 ジェーンは手近な水差しを見たが、どうも濁っている気がしたので、急いで外に出てくみ直してきた。 ジェーンに支えられて、青年はうまそうに水を飲み干した。
  また彼を寝かしつけて布団を整えてから、シ゜ェーンは廊下に忍び出た。 さいわい、宿直室を抜け出したことは誰にも知られずにすんだようだった。
 
  数日後、ジェーンは看護師の控え室で妙な話を聞いた。 ベテランのキティがえらく憤慨して話していた。
「あんな患者、1万ドルもらったってお断りだわ!」
  周りの幾人かも同調した。
「食事は食べない。 毛布は放り出す。 口汚く罵る。 人手を借りなければ生きていけないくせに、あの態度は何よ!」
  と、キティはだみ声で怒鳴った。
  その患者が他ならぬマイケル・ステュワートと知って、ジェーンは黙っていられなくなった。
「体が不自由だといらいらするんでしょう、きっと」
  キティは、怒った表情でジェーンを見た。
「じゃ、あなたが担当してごらんなさいよ。 口で言うだけなら簡単よ」
  そうよそうよ、と看護師たちが言ったので、ジェーンは後に引けなくなり、事務部に行った。 人事担当者は、喜んでジェーンの申し出を受け入れた。 但し、自分から言い出したのだから、少なくとも一ヶ月はやめては困るという条件付だ。 おとなしそうに見えたが、マイケル・ステュワートは大変な悪たれらしいと、ジェーンは驚いた。

  受け持ちの医者が、ジェーンを18号室に連れていった。 彼は、無理に作った機嫌のいい声を出してマイケル・ステュワートに話しかけた。
「やあ、マイク、今日の気分はどうかな」
「最悪です」
と、毛布を被ったかたまりが唸った。
  医師はジェーンにしかめっ面をして見せて、ベッドに近づいた。
「新しい看護師嬢だよ。 これで8人目だよ、君。 この人は奇特にも自分から名申し出てくれたんだ。 彼女までいじめると、もう君の面倒をみるひとはいなくなるよ」
  かたまりは動かなかった。 医師は短く息をついて、ジェーンを後に残して出ていった。
  ジェーンは、ややおそるおそる屈みこんで、青年に声をかけた。
「私、ジェーン・ドリューといいます。お手やわらかに」
  ゆっくりと毛布が動いて、顔の上半分がのぞいた。 茶色の眼がみるみる大きくなった。
「やあ、君! やっと来てくれたんだね! このサナトリウムには何人看護師がいるんだい? いくら追っ払っても君に行き当たらないんだから!」
  ジェーンは一瞬あっけに取られた。 しかし、すぐ事情を飲み込んで、思わずプッと吹き出した。
「しょうのない人ね、ステュワートさん」
「マイクと呼んでくれ」
  青年は楽しそうに言った。

  それからの数週間、ジェーンはマイクの世話に明け暮れた。 マイクが子羊のようにおとなしくなってしまったので、今ではジェーンは同僚に一目置かれていた。
  マイクはかわいい青年だった。 どちらかというと甘ったれで、切れるというタイプではなかったが、素直でおっとりしていた。 彼の父はイギリス人、それも頑固で勇猛なスコットランド系なので、息子が母国のために戦うのを望んだのだった。
「僕はそれほど行きたくなかったんだけど、父の命令だから」
と、無邪気に言うマイクを見て、ジェーンは胸が締め付けられる思いがした。
  父という人は、毎週見舞いに来た。 見たところは気丈そうだったが、帰りがけに涙を拭っているところを、ジェーンは見たことがあった。
  無理もないことだった。 マイクの怪我は深刻な状態で、もって後数ヶ月という診断が下されていたのだ。 残り少ない青年の毎日を少しでも充実したものにしようと、ジェーンは最善を尽くした。
  ジェーンと、それに父親の願いが天に通じたのか、マイクはあまり痛みを感じずに衰弱していった。 ジェーンは他の看護師から嫌がられるほど始終、彼のシーツを取り替え、カーテンを洗い、次第に春の明るさ、暖かさを増していく戸外の景色を、差し支えない限り彼に楽しんでもらおうと、毎日、野の花をつんできた。
  その朝、マイクがよく寝ていたので、ジェーンは少し足を伸ばして森の中まで行き、スミレを見つけて篭に入れた。 何かいいことがありそうな気がして、軽い足取りで戻ってくると、庭に横付けになった大きな車が見えた。
  首を下げ、今にも乗り込もうとしている人物を見て、ジェーンは思わず声を立てた。
「テンプルさん!」
  デニー・テンプル氏は、小さな篭を手に小走りで近づいてくるジェーンを見つけて、眼を見張った。
「ドリューさん。 ここに勤めていたんですか」
「はい」
  自分でも思いがけないほど懐かしかった。 一度しか会ったことのない人だが、その日が楽しいピクニックだっただけに、いい思い出と結びついていた。

  すぐ帰ろうとしていたテンプル氏は、予定を変更してジェーンと食堂に行き、代用コーヒーを飲みながらしばらく語り合った。
「親友の息子が入院していると聞いて、来てみたんですよ。 でも名前が同じなだけで、別人でした」
  そう語るテンプル氏の顔は、驚くほど暗かった。
「最近はいい話がなくてね。 アニーでさえ無口になって、相手をしてくれません。 同僚の医者で恋人だった男が、田舎から戻ってこないらしいんです。 娘を失ったような気がします」
  肩を落とすテンプル氏を慰める言葉を、ジェーンは見つけることができなかった。

  氏を見送った後、ジェーンは物思いに沈みながらマイクの病室に入った。 マイクはもう目を覚ましていて、明るい笑顔をジェーンに向けた。
「今日はとても気分がいいんだ。 さっき先生が、10分ぐらいなら車椅子に乗って窓から外を見てもいいって」
  一度にジェーンの顔も明るくなった。
  窓を大きく開き、晴れた朝のさわやかな風を受けて、マイクははしゃいだ。 ライラックの白い花びらが、笑っている青年の顔に散りかかる。 木漏れ日のあたたかさまでが、マイクにはささやかな幸せの種だった。
「いいなあ」
  と、彼はつぶやいた。
  5分ほどが過ぎた。 いろんなことを次から次へと話していた声が、ふと止まったので、ジェーンはシーツを畳みなおすのをやめて、彼を見た。 マイクは黙って彼女を見つめていた。
「どうしたの、マイク?」
  ジェーンが微笑みながら尋ねると、マイクも微笑した。
「すごくいい気持ちだな、と思ってるんだ。 明日もやろうね」
「ええ、ローレル先生のお許しが出たらね」
  マイクは小さくあくびした。
「喉が渇いちゃったな。 新しい水、飲ませてくれる?」
  ジェーンはきびきびと廊下に出て、衛生的な水を汲みなおしてきた。
「持ってきたわ。 はい」
  マイクは顔を窓に向けて、やや斜めになっていた。 これでは背中がつらいだろうと思い、抱き抱えて姿勢を直そうとしたとき、マイクの手が凍りついたように冷たいのに、ジェーンは気付いた。
  その瞬間、ジェーンは車椅子の横に崩れ落ちてしまった。


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