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43  見せかけの恋


 ほんの半時間前には想像もしていなかったことだった。 相手もあろうにバリー・テイラーと、せいぜいよく言っても喧嘩友達としか思えない男と、ミッキーより深い仲になってしまうなんて。
  ふたりは部屋の隅に置いてあるソファーに横たわっていた。 さっきまでルイーズを固く抱きしめて情熱の限りをぶつけていたとは思えない静けさで、バリーはゆったりと息づいている。 一方ルイーズの方は、苦い後悔にさいなまれていた。
  行きずりの他人なら知らん顔して別れれば済むが、同じ劇団にいてしかも相手役の男性だから、明日からも毎日のように顔を合わせなければならない。 どんなに気詰まりなことだろう。 やけになる代償がいかに高いかを、ルイーズはつくづく思い知った。
  しかし、苦しさは睡魔に打ち負かされた。 ここしばらく浅い眠りしか取れなかった反動だろうか、ルイーズは意識が薄れるのを感じる暇もなく、泥のような眠りに落ちていった。

 薄く目を開くと、木漏れ日が淡く顔に当たっていた。 はっきり目覚める前に昨夜の記憶が蘇ってきて、ルイーズは胸にわびしい痛みを感じた。
  バリー・テイラーのことだ、とっくにアパートに帰って、昨夜の突発的な出来事なんか忘れているだろう。 そう思って、ゆっくり重い瞼を上げると、窓辺に男の後ろ姿が見えた。
  ルイーズは思わず体を起こした。 そのかすかな音で、バリーは振り向いた。
  シャツを着流し、いくらか乱れた髪が額にかかっている。 眼鏡がないので細かいことはわからなかったが、全身に若さと、それに意外なことに戸惑いが感じられた。
  ルイーズに近づくと、バリーは彼女の横に腰をおろした。 そして、低く言った。
「おかしな夜は終りだ。 もう悪い夢から覚めただろう?」
  そばで見ていてくれたんだ――不意にルイーズの胸が迫った。 この5年間、誰も目覚めた彼女のそばにいてくれる人はいなかった。 ミッキーは大切にしてくれたが昼間だけで、しかも心は他の女性で一杯だった。
  ルイーズはうなだれて、バリーの胸に顔を押しつけた。 そして、そのままの姿勢でつぶやいた。
「ありがとう」
  バリーの胸が大きく波打った。
「よせよ、なぜそんなことを……?」
「何だか蔦みたいな気分なの。 一人じゃ立っていられないみたいな」
  バリーは深く息をついた。
「俺はミッキー・ステュワートじゃない。 親切な人間じゃないことはわかってるだろうに」
「親切じゃなくていいのよ。 やさしくされたら崩れてしまうから」
  荒っぽく立ち上がったバリーに、ルイーズはそっと言った。
「先に帰って。 私は残って、気持ちの整理をするから」
「君が先に帰れよ」
  バリーがそっけなく言い返した。
「俺はよそへ回ってアリバイ作りする。 帰って、風呂にでもつかって、全部忘れるんだ」

 ルイーズが裏口を出たとき、時計はもう7時を回っていた。 階段を上ってくる軽やかな足音がするので、引き返そうか迷っていると、もうすでに遅く、不意にドアが開いて、トルコブルーのドレス姿が目の前にあった。 それは、こういう場合に一番会いたくない人間、つまりジャッキー・アランだった。
  腫れぼったい眼に乱れた髪のルイーズを見た瞬間、ジャッキーの目が細まり、口がつぼまった。 やがてその口元に、皮肉な笑いが広がった。
「ふうん、そういうこと。 ベッドで役を取る女優がどうとか、以前誰かと話してたわよね。 自分もやってたくせに」
「ちがうわ……」
  言葉が喉につかえた。 ジャッキーの邪推とは別の意味で気が咎めたのだ。 たしかジャッキーはバリーのことを……
  ジャッキーはルイーズに一歩近寄って、襟元を指差した。
「それがキスマークじゃなかったら、あの屋根から跳んでもいいわ。 役の小間使いと一緒で、ご盛んなことね」
  背後でドアが、パタンと音を立てた。 人の気配がしたと同時に、よく響く声が言った。
「あたり、でも前半は外れ。 僕と付き合っても役は取れないからね」
  見上げたジャッキーの顔が、みるみる血の気を失った。 シャツの胸ボタンを外したまま、無雑作に肩に上着を引っかけて、バリーはルイーズの腰に手を回すと、さっと建物を出た。

  裏庭を突っ切って歩きながら、バリーは早口でぶつけるように言った。
「まずい相手に見つかった。 何がなんでもスキャンダルにでっちあげるぞ。 おまけにあいつが今交際中のボーイフレンドは劇評家ときてる」
「ひとつ思いついたんだけど」
  ルイーズは逆に頭が冷静になるのを感じた。
「前にデック(=舞台監督のデ・クインシー)が冗談ぽく、ミッキーと私が本当に恋に落ちたらいい宣伝になると言ったことがあったわ。 噂を振りまかれる前に、恋人宣言をしてしまいましょう」
  バリーが、野生動物のように敏捷に振り向いた。 彼が口を開く前に、ルイーズは淡々と言葉を続けた。
「熱烈な恋人同士があっという間に喧嘩別れするのはままあること。 恋愛も破局も、本当の恋だと世間に思ってもらえれば、いい印象につながるわ。 あなたが私をかばってくれた以上、私もあなたの評判を守るつもり。 うまくいけば、一石二鳥になるわ」
「驚いた」
  バリーの精悍な横顔に、微苦笑がひらめいた。
「ミッキーに寄りかかっているだけかと思ったら、えらく頭が回るんだな」
「ビングに電話しましょう。 芸能記者では一番誠実な人よ」
  わずかにためらった後で、バリーはうなずいた。
「わかった。 善は急げだ」

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