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42・ 3つの別れ


 テンプル夫妻と同じ列車で帰ることになったのが最大の失敗だったと、アニーは深く後悔していた。 サンディが、恋人のサンディが、あの日から1週間経っても戻ってこないのだ。 
  もちろん無断でというわけではない。 故郷に戻って、父から結婚の承諾を貰ってくるという手紙が、ホテルに残してあった。 だが、それなら私も連れていくべきじゃないか、とアニーは考えた。
  この唐突な去り方はどう見ても普通ではない。 おまけに、去って行った人間は一人ではなかった。 ニュースワンシーにアニーが戻った5日後に、ミッキーから手紙が届いた。 その内容を読んでいて、アニーはあまりのことに座っていた椅子からすべり落ちそうになった。
  手紙は決して悲劇的な調子ではなかった。 カナダ人の友達に誘われて軍隊に入ると、まるで日常のことのように書かれていた。
  アニーは天地が引っくり返ったような気分を味わった。 やはりあの日、ミッキーに会いに行っていたらと思った。 いまだに原因はよくつかめないが、あのじりじりした焦燥感は本物の予知だったのだ。
  翌朝、アニーは一刻も早くジェーンに会おうとした。 ところが彼女はニューヨークから戻った直後に辞職していた!


 ジェーンはぼんやり窓辺に座って、満月を見つめていた。 遠いヨーロッパでも月は同じように空に輝く。 ミッキー・ステュワートの突然の引退と兵役志願は、ゴシップ誌を派手ににぎわしていた。
  ジェーンには信じられなかった。 まさか自分の託した手紙がこんな事態を引き起こすなんて夢にも思えなかった。
「私のせい?」
  もう何百回も月に尋ねた問だった。 答えは返ってくるはずがなく、ジェーンは死にたいほど苦しんでいた。
  これで2度、ジェーンはミッキーを裏切った。 彼の愛を信じきれず、自分にまったく自信が持てないまま、セアラとナディア姉妹に振り回されて、2度もミッキーを置き去りにした。 罪深い自分を思うと、いても立ってもいられない。 だが生きていかなければならなかった。 ロニーのために。
  皮肉なことに、当座の金には困らなかった。 もちろんナディアが押しつけた、あの金だ。 まだ見習い中ではあったが準看護師の資格があるので、ジェーンはカナダに行くことにした。 傷病兵のためのサナトリウム――あまりの悲惨さに看護のなり手が少ないという、重症患者の施設に願書を出し、採用されたのだった。


 ルイーズは、劇団の廊下にあるソファーに腰をおろしていた。 彼女には珍しく神経質に扇子を動かし、ぱたぱたと上気した顔をあおぐ。 ルイーズは人を待っているところだった。 会いたくない男、顔を見るのも嫌な男を。
  すっと風が起こって、隣りに誰か座る気配がした。 横を向くのも面倒なので、ルイーズは足元に視線を落としたままでいた。 すると、聞き慣れた鋭い声が囁いた。
「前にも言っただろう? 失恋して死ぬ奴は大馬鹿だって」
  ルイーズは背中を強ばらせた。
「やめてよ。 ミッキーを悪く言うのは」
  声はやめなかった。
「男を失くしてやけになる女も大馬鹿だ」
  たまらなくなって、ルイーズはバリーに向き直ると小声で言い返した。
「私はミッキーに恋してたわけじゃないわ。 あなたに私の気持ちがわかるわけない」
「わかりたくもない」
  にべもなく、バリーは言い捨てた。
「君は女優だ。 ミッキー・ステュワートじゃなく僕が相手役に代わっても、見事な小間使いを演じつづけている。 彼と違って本物のプロなんだ」
「そのために私がどれだけ疲れきってるか、わかる?」
  ルイーズの声が鋭くなった。 ミッキーが不意に消えた後の果てしない孤独感の中で、ルイーズが目指したのはただ1つ、ミッキー・ステュワートが抜けたから舞台が駄目になったといわれないように、つまりこれ以上ミッキーにダメージを与えないように、必死で演技することだった。 大事な仲間で、心の親友だったミッキーを守るために、ルイーズは闘っていたのだ。
  だが、それももう終わった。 今日で《こうもり》の全日程は終了した。 ルイーズが以前から考えていたとおり、バリー・テイラーは恐ろしいほどうまい俳優で、代役とはいえ、ミッキーとは違う、はつらつとした硬質な青年像を見事に短期間で創造した。 おそらく以前から密かに演技プランを練っていたのだろう。 
  彼のおかげでリイス&ゴードン劇団の被害は最小限で済み、新たなスターが生まれた。 間もなくミッキー・ステュワートは人々の記憶から薄れ、代わりにバリー・テイラーの名前が演劇史に記されるだろう。
  私はもういい、疲れた――そうルイーズは思った。 アレックスはもう帰ってこない。 そして、自分の恋の代わりに心から応援していたミッキーの想いも叶わなかった。 今日、この千秋楽の日、ルイーズは前から彼女を狙っていたヴィック・ギルフォードの誘いに乗り、彼の別荘に行こうとしていた。
  曲がり角の向こうから、男の足音が近づいてきた。 もうじき角を曲がって姿を現すだろう。 ルイーズはけだるく扇子を膝に置いた。
  そのとたん、バリーが動いた。 ルイーズの腕をいきなり取ると、声を出す暇もなく横のドアをもう片方の手で開け、しゃにむに押し込んだ。
  ドアが閉まるのと、ヴィックが廊下に入ってくるのとが、ほぼ同時だった。 バリーの長い指で口を押さえられて、ルイーズは一言も発することが出来なかった。
ヴィックの足音が、ソファーの前で止まった。 それから衣擦れの音がした。 どうやら身をかがめて、落ちた扇子を拾ったらしい。 かすかな舌打ちの音が聞こえた。
  バリーは全身でルイーズを押さえこんだまま、息をひそめていた。 ルイーズも特に抵抗せず、無理に動こうとはしなかった。 やがてヴィックの足音は遠ざかっていった。
  ようやく口を押さえていた手が離れたので、ルイーズは大きく息をつきながらドアに寄りかかった。 バリー・テイラーは黙って立っていたが、間もなく思いがけないことを言った。
「引っぱたきたかったら、やれよ」
  ルイーズはじっと彼を見た。 広い肩幅、すらっとした腰、切れ長な眼と癖のない眉。 ミッキーの言ったとおり、バリー・テイラーはアレックスの雰囲気を持っていた。 眼鏡をかけていない今では、ぼんやりと前に広がる輪郭が、さらに強くそう感じさせた。
  ドアから身を起こすと、ルイーズは単調な声で言った。
「私はただの駆け出し女優よ。 お嬢様だとでも思った? こわれものみたいに守る必要なんかないのよ」
「相手を選べよ」
  バリーの声がきつくなった。
「ヴィックの持ってるのは金だけだ。 もっと立派な取り巻きがいくらでもいるのに!」
「好きだなんて言わない人がいいのよ」
  ルイーズは、やっとの思いで言い返した。 本当に、もう口がきけないのではないかと感じられるほど疲れていた。
「恋愛はもうけっこう。 面倒なことはもうたくさん」
「そんなに人生経験豊富なのか?」
  バリーは鼻で笑った。 ルイーズは目を細めて相手を観察していたが、不意に足をもつれさせて近づき、頬を打とうとした。 しかし、手は途中で止まり、力なく下に垂れた。 どういうつもりか知らないが、ルイーズが無茶をするのを止めに来てくれたのは、この無愛想な青年ただ一人だったのだから。
  本気で心配してくれたのは、このひとだけ――そう改めて悟ったとたん、ルイーズはよろめいた。
  倒れそうになったので、反射的にバリーが支えた。 そのまま眼を閉じて、ルイーズは思った。 こうやって寄りかかっていると、まるでアレックスみたい。 私のアレックス、大好きだった人……
  バリーが動いたので、ルイーズはうるんだ声でささやいた。
「あなたにはわからないのよ。 でも、わからなくていいの。 もう少しこのままでいて。 もう5分でいいから」
  バリーは息を吸い込み、乱暴に体を離した。
「なに子供みたいなことを!」
「じゃ、ここから出して。 他の人を探しに行くわ」
  ルイーズの肩に、男の手が痛いほど食い込んだ。 数秒間、バリーはそのままの姿勢でいた。 それから、いきなり唇を重ねた。

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