劇場の豪華な化粧室で、念入りに髪を直していると、背後に人の立つ気配がした。
鏡にその女性の姿が映った。 オートクチュールです、と看板を張っているようなドレスをまとっている。 あまりにも若作りではないかと思われる服と化粧だが、たしかに美人は美人だった。
中年美人は、ジェーンの横のスツールに腰を下ろして、冷たい光を帯びた眼でじっと眺めた。 居心地が悪くなって、ジェーンは立ち上がろうとした。
そのとき、声が聞こえた。
「しょうこりのない女ね。 大金を受け取ったこと忘れたの?」
冷水どころか氷水を浴びせられたようなショックが、ジェーンを襲った。 美人は筋張った手でジェーンの手首を掴み、動けないようにした。 眼が異様に輝いている。 初めて見る顔だが、どこかで見覚えがあるような気がした。
「妹がね、あなたの写真を撮っておいてくれたのよ。 だからすぐわかったわ。
別れるって、あなたあのとき約束したわよね。 それがいったい、ここで何しているの?」
「私は……」
「もっと金がほしいわけ!」
女の声が割れた。 本気で怖くなって、ジェーンはなんとか手を振り切ろうとした。
「ちょっとでもあの子に近づいてごらん。 あんたのことをあらいざらい調べ上げて、弱いところを徹底的に突いてやる! 人間どこかに弱点があるものよ。 特にあんたにはいくらでもありそう。
さあ、鏡を見てごらん。 自分がミッキー・ステュワートにふさわしいかどうか、自信持って言える? さあ、とっとと消えなさい! 早く!」
そう口では言いながら、女はジェーンを離そうとしなかった。 半泣きになっている耳元に口を寄せて、強くささやいた。
「手紙を書くのよ。 別れの手紙を。 今度こそ彼が完全に嫌気がさすようなのを」
これが、アニーとルイーズが初めて言葉を交わす15分前に起きたことだった。 アニーの得体の知れない不安は時を得ていた。 しかし、間に合わなかったのだ。
劇場を出るのももどかしく、何とか辻馬車を捕まえようとしていたアニーは、そっと大きな手が肩に載ったので、いらつきながら振り返った。
「サンディ!」
「ごめん」
彼は、心底申し訳なさそうに頭を垂れた。
「君がテンプルさんと一緒だったから……」
気がせいているときに引き止められて、アニーはつい不満をぶつけてしまった。
「あなたが会いたくないのは金持ちじゃなく、デニーおじさんその人なんでしょう?」
サンディの大きな体が硬くなるのが、はっきりと感じられた。 アニーは彼の手を振り切ると、馬車を探して視線を動かした。
「行かなくちゃいけないところがあるの」
「どこ?」
妙に静かな声だった。 変だと思うべきだったのだが、興奮していたアニーはその兆候を見逃してしまった。
「ミッキーのところ」
「よしたほうがいい」
珍しくきっぱりとした言い方だった。
「行くのはジェーンだ。 そうだろう?」
「もちろんよ」
アニーは上の空で答えた。
「私は2人にうまく行ってほしいだけ。 でもなんか妙な胸騒ぎがするのよ。 さっきセアラに会っちゃったし」
「邪魔しちゃだめだよ」
サンディは強く言い張った。
「2人はおとなだ。 2人で解決するよ」
強引に引っ張られて、アニーはふくれっ面になりながら、サンディに連れられていった。
「辞める?!」
リイス団長は、思わず椅子を倒して立ち上がった。
「なぜ!」
「舞台に情熱を失ったからです」
「冗談も休み休み言いたまえ! ゆうべの君は最高だった!」
「バリー・テイラーの方がもっとうまくやると思います」
団長は、一晩でげっそりやつれた青年を、探るように眺めた。
「よほど辛いことがあったらしいが、私生活を舞台に持ち込むようでは失格だぞ」
「そのとおりです。 だから辞めたいんです」
団長は、言葉に詰まって咳払いした。
「こういう辞め方をすると、カムバックしたくなった時に困るだろう」
「もう舞台は踏みません」
「そう言って去る者は多い。 だが十人中九人はスポットライトの魅力に引かれて戻ってくる」
ミッキーの頬に、疲れた微笑が浮かんだ。
「そうですか。 僕には船員のほうがずっと楽しかったんですが」
団長の目が驚きで丸くなった。 ミッキーは熱のない口調で続けた。
「僕が俳優になったのは、他に目立つ手段がなかったからです。 ある人に見直してもらうために」
団長は完全にあっけに取られた。
「その人は船員より俳優がいいと?」
「たぶんそうじゃなかったんでしょうね。 見事に振られましたから」
ミッキーの眼が苦痛にぼんやりとなった。
少し間があった。 団長は、ゆっくり机に手を置いた。
「引き止めても無駄らしいな」
「迷惑をかけて申し訳ありません」
「これからどうする?」
「わかりません」
投げやりに言った後、ミッキーは思い出したように付け加えた。
「外国にでも行ってみようかと考えています」
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