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38 舞台稽古


 階段を上がるルイーズの足は、鉛のように重かった。 今は1月。 1年の貴重な始まりなのに、気持ちは落ち込みっぱなしだった。
  クリスマス・カードが届かない。 去年の年末まで首を長くして待ちわびたが、遂にポストに入らなかった。
  アレックス、アレックス! そのカードだけが、今の2人をつないでいるものだった。 ロンドンでの引き裂かれるような別れの後、カードだけは変わらずに、ぶっきらぼうなほど短い文面ながら、毎年匿名のまま届いていた。 だからルイーズは平常心を保っていられたのだ。
  大好きな青い繻子のリボンで束ねたカードを、戸棚の奥にしまってある小箱から取り出して、じっと見つめながら、ルイーズは消えてしまった恋人に心の中で呼びかけた。
(アレックス、私は何も望まない。 母のように、恋人の地位や財産がほしい、妻にしてくれなければ愛せない、なんて言わない。
  ただ、愛させてほしい。 そして、できるなら愛してほしい。 心から)
  純粋な愛を望んだために、ルイーズは女優の道を歩くことに決めたのだった。 自分の足で立って歩ければ、アレックスの負担にならずにすむ。 だから、ルイーズは長持ちする脇役になるつもりで、真面目に演技の勉強に取り組んでいた。 スターになりたいとは願わなかったし、なれるとも思っていなかった。
  それが最近妙な具合なので、ルイーズは当惑していた。 ブロマイドが売れているとか、パーティーへの招待が最近異様に増えたとかいうのは、母が裏で手を回しているのだろうと推測できたが、近ごろ舞台に出ると、それだけで溜め息や拍手が沸き起こるのには驚いたし、気詰まりさえ感じた。
  (私はミッキーじゃない。 騒がれるようなタイプじゃないのに)
  目立つのは苦痛だった。 まして、柄にもなく『娘役のホープ。 しっかりした演技力に裏打ちされ、将来は大女優の資格充分』などと演劇雑誌に書かれるのは、大げさすぎて顔が赤くなった。
  思い切って母に、批評家に手を回さないでくれと頼んだが、鼻であしらわれた。
「何言ってるの。 自分の力を信じないで、俳優が勤まると思うの? おまえは自分で目立ったのよ。 なぜそれがわからないの」
 
  階段を上りきったところで、ルイーズは大きく息をついた。 次の公演の演目は《こうもり》。 ヨハン・シュトラウスの人気オペレッタだ。 ルイーズは小間使いの役に抜擢されて、ダンスの特訓中だった。 足はばんばんに張り、筋肉痛は限度を越えている。 それでも練習しないと不安でならなかった。
  うつむいていたために、用心がおろそかになった。 廊下をせかせかと歩いてきた男性に、ずしんと正面からぶつかってしまった。
「ごめんなさい」
  あわててあやまりながら、ルイーズは相手が誰かしらといぶかった。 眼鏡をかけていないので、すべてがヴェールのかかった霧の世界に見えるのだ。
  男はそっけなく言った。
「よく階段から転がり落ちないね」
  またあなた――ルイーズはうんざりして、こんなときに会いたくないものだと思った。
「テイラーさんね」
「そうだけど」
「あなたもよく他の人とぶつからないわね。 どうしてそんなにいつも急いでいるの?」
「単にせっかちなんだ。 君が単に遠視なのと同じさ」
「バリー!」
  わざとらしい派手な声が、二人の話に割り込んできた。 ジャッキー・アランだ。 バリー・テイラーは、無愛想なわりには、若い女優たちに人気があった。
  バリーは上の名前で呼ばれて、しぶしぶ振り返った。 何となく嫌そうな雰囲気だな、とルイーズは感じた。
  案の定、彼の答えはぶっきらぼうだった。
「何の用?」
「あのね、ここのセリフ、読み合わせしない?」
  ジャッキーの声には、ルイーズに対する当て付けだけとは思えない華やぎがあった。 もしかするとテイラーが好きなのかもしれない、とちょっと思って、ルイーズは目立たないように遠ざかった。 これ以上ジャッキーを刺激したくない。 似たタイプなので、始終役柄の取り合いになって、充分憎まれているのだから。

  ドアを開けると、どっと様々な音が襲いかかってきた。 てんでんばらばらにセリフを朗誦する声、振り付け通り踊り回る靴の音、その間を縫って歩く舞台監督の聞き慣れた足音と唸るような注意。 いつの間にか、この雰囲気に慣れ、親しみを覚えている自分に気がついて、ルイーズはどこかほっとした。
  鏡の傍で、大きく手を振っている姿がある。 もちろんミッキーだ。 彼に向かって大きな部屋を横切っていきながら、ルイーズはまたもアレックスを思い出して胸がずきりと痛むのを感じた。 もう終りなのだろうか。 アレックスは新しい人生を選び、新しい恋をしているのだろうか……
  ミッキーはいつも通り手を伸ばしてルイーズの手を取り、机のわきに誘導した。 このあけっぴろげな親しさのせいで、2人は何度も雑誌のゴシップ欄をにぎわしていたが、どちらも全然意識していないし、特にミッキーの方はまるで気にしていなかった。
「やあ、ルイーズ、なんだか顔色が悪いよ」
「そう?」
  頬に手を当ててみて、ルイーズは納得した。 顔がひどく冷たくなっている。
「昨夜何も食べなかったから」
  細い手を握ったまま、ミッキーは少し深刻になった。
「君が沈んでいるときは、いつもアレックスがからんでいるんだ。 そうだろう?」
  見抜かれて、ルイーズは思わず目を伏せた。
「……会いたいの。 どこにいるか、それだけでもわかったら……」
「本当にしょうのない男だ」
  ミッキーは本気で怒っていた。
「昔から無口で愛想はなかったが、信頼はおけたんだがな」
  もしかすると事故かなにか起こして連絡できないのかもしれない、とミッキーは以前から思っていた。 が、そんなことを今のルイーズに話して、なおさら心配させるようなまねはしなかった。
  ルイーズの肩に手を置くと、ミッキーはできるだけ確信を込めて言った。
「ひとつだけは言える。 アレックスは責任感が強い。 君をわざと苦しめるような真似は絶対にしないよ」
「そうね」
  ルイーズは努力して微笑んだ。 ミッキーの言葉を聞くと、いつもながら元気が出る。 それは、ミッキー自身が誠実で信頼が置けるからだった。
  2人の傍を通りながら、舞台監督のデ・クインシーが声をかけていった。
「役柄みたいに仲がいいのはいいが、そろそろ練習を始めてくれよ」
「はい、わかりました」
  はきはきとミッキーが答えた。 彼はルイーズの相手役に選ばれていた。

  声域の広いバリー・テイラーは、警官、というセリフのある役を初めて手に入れて、わき目もふらずに練習していた。 彼の張りのある声が回りの雑音に負けずに響いてくるのを聞いて、ルイースはふと、ミッキーに続いて頭角を現すのはこのバリーではないかと感じた。 それぐらいバリーの台詞回しは美しく、迫力があった。
  やっぱり自殺しないでよかったじゃないの、とルイーズは思い、ちょっといい気持ちになった。

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