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33 観劇の夜(2)



 サンディが突如体調を崩したせいで、アニーはすっかり気が散ってしまい、しばらく舞台に集中できなかった。
  だがそのうち、劇場に不思議なざわめきが起こったので、ようやく舞台に注意を向けた。
  『メリーウイドウ』は、初めから華やかな舞踏会のシーンで幕を開ける。 少しして主役の未亡人が派手に現れ、文字通り陽気に歌う。 だが、ざわめきは彼女の登場でおきたのではなかった。
  舞台の上では、夫人の手を取って、金髪の青年が二重唱を歌っていた。 アニーはオペラグラスをあわてて目にくっつけ、しげしげと舞台の上の二枚目を観察した。
  それはフランス青年ロッションという役だった。 しょうもない振られ男で、歌さえうまければ大根役者でもできる。 だが、控えめに演じているにもかかわらず、ミッキー・ステュワートは主役のダニロ・ダニロヴィッチ男爵よりも目立ってしまっていた。
「顔だけじゃなくて、声もよかったのね」
  無意識に話しかけていた。 それぐらい驚いた。 何という声だろう。 明るくて、澄み切っていて、青春の感動にあふれている。 この甘美な二重唱で、ミッキーは観客をとりこにしてしまった。
  1幕目が終わると、拍手の嵐だった。 もちろんアニーも手が痛くなるほど叩きまくった。
  少し落ち着いて横を見ると、テンプル氏が額に手をやって下を向いていた。 明らかに気付いているようだ。 とても話をする雰囲気ではないので、アニーは隣りにおとなしく座っているドリューに言った。
「すてきだったわね」
「ええ」
とドリューは小声で答えた。 だが、うれしそうにも感動したようにも見えない。 むしろ顔色が悪くなっているように感じられた。 哀れなサンディと同じように人いきれにやられたのかと、アニーは不安になった。
「気分が悪い?」
「いいえ」
  疲れた様子で、ドリューは答えた。 
  ジョーイが横でぶつぶつ言った。
「どうしたんだ、あの男の歌手。 ずっと君ばっかり見てたよ」
   驚いて、アニーは座席に座りなおした。
「私? そんなはずないし、第一こんなに薄暗い桟敷席が舞台から見えると思う?」
「見えたんだよ。 彼は君を知ってる。 君だって彼を知ってるんだ。 ずっと独り言いってたの、自分じゃ気付いてなかったろう。 落ち着いて、がんばって、立派になったわね、なんて言い通しだったんだぜ、君は」
  アニーは困って横を向いた。 ジョーイは深刻な顔をして膝を寄せてきた。
「ねえねえ、いったいあの男は何者?」
「何者って……幼馴染」
  まさか元婚約者とは言えない。 それにしても家出人が戻ってくるやり方としてはちょっと派手すぎるんじゃないかと、アニーは内心はらはらしていた。
「じゃ、この辺の出身?」
「……ええ」
  黙りこくってしまったテンプル氏を気にしながら、アニーは小声で答えた。
  そのとき、第二幕のベルが鳴った。

  幕の途中で『ロッション』青年が登場すると、主役ではないのに拍手が起きた。 そして、ロマンスという曲を歌い終わるとしばらく次の歌に移れないほどの騒ぎになった。
  ミッキー、つまりロビンは、落ち着いて胸に手を当て、観客が静まるのを待っていた。 こういうことには慣れているらしい。 これまでの巡業地でも騒がれてきたのだろう。 他の歌手たちも忍耐強く舞台の上で待っていた。
  3幕に入ると、舞台はカンカンなどでいっそう盛り上がり、大団円になだれこんだ。 舞台が終わる前から客席の一部はそわそわし始め、楽屋に一足早く行って、『あの凄い金髪さん』のサインをもらおうという若い娘たちが席を立ちかけていた。
  アンコールは長く続いた。 しまいにミッキーが主人公のハンナ役の美人女優と手を取りあって挨拶を繰り返し、やっとお開きになった。
  桟敷席では、ドリューが真っ先に立った。
「あの、明日早いので、お先に」
「でも、ドリューさん……」
  小さく会釈して、娘は逃げるように出ていった。
  アニーは扇を空中に放り投げた。
「今夜はどうなってるの! サンディは消えたままだし、ドリューさんはさっさと帰るし。 ジョーイ、サンディを探すの手伝って」
  廊下に出ると、すぐにジョーイはアニーを質問攻めにし始めた。
「あの二枚目とどこで知り合ったんだい? どうしてここに来るまでに一言も言ってくれなかった? どうして……」
「アニー!」
  切羽詰った呼び声が聞こえ、2人は同時に振り返った。
  すると、人ごみを泳ぐようにかき分けて、当の噂の主が、扮装のまま近づいてくるのが見えた。
  彼は、いきなりアニーの肩に手をかけて早口で言った。
「アニー、彼女はどこだ!」
  アニーはあっけに取られた。
「彼女って?」
  ミッキーつまりロビンは、鋭く繰り返した。
「彼女さ。 君の隣りに座ってた」
「ああ、ドリューさん」
  アニーはやっと納得した。 ロビンは、幼なじみを軽く揺さぶった。
「お願いだよ、早く教えてくれ。 彼女は桟敷席にいるのか?」
「いいえ、たった今帰ったわ」
「帰った!」
  ロビンは真っ青になった。 アニーは彼の手を掴んで引っ張った。
「ねえ、どういうことなの?」
「後で話すよ。 どうしても彼女に会わなくちゃならないんだ。 アニー、彼女がどこに住んでるか、教えてくれないか? 知ってるんだろう? もし知らないなら、僕は……」
  彼が、見たこともないほどのぼせているので、アニーは大急ぎで言った。
「知ってるわ。 落ち着いて。 彼女は逃げたりしないわよ。 私と同じ病院で見習い看護師をしてるの。 32番地の、エリクソン病院よ。 そこの寮にいるわ」
「ありがとう、アニー!」
  走り出そうとして、ロビンは危うくブレーキをかけた。
「何という名前で?」
  アニーは仰天したが、ともかく教えた。
「ドリューよ。 ミス・ドリュー。 上は、ええと……」
「ジェーンだよ」
  看護師の名前なら生き字引と言われるジョーイが耳打ちした。
「ミス・ジェーン・ドリューよ!」
「ありがとう! 恩に着るよ!」
  風のように階段を駆け下りていくロビンを見ながら、ジョーイがつぶやいた。
「あのメイクで街に出るつもりかな」

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