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32 観劇の夜


  翌日、アニーができるだけドカドカと足音を立てないようにしながら廊下を歩いていると、控えめな柔らかい声で呼ばれた。
「あの……デュヴァル先生」
  振り向いたアニーは、柱の傍にかしこまって立っているドリュー見習い看護師を見た。
「なに、ドリューさん?」
  ドリューは、緊張した様子で言った。
「あの、オペレッタの劇団がニュースワンシーに来るそうですが」
「ええ、今度の金曜日にね」
  アニーは気軽に答えた。 ドリューのかわいい顔が、一段と緊張した。
「券はどこで買えばいいんでしょうか。 私、そういうこと何も知らなくて」
  アニーは目を見張った。
「ああ! あなた見たいのね。 ちょっと待って。 ジョーイに訊いてみる」
  ドリューはたじろいだ。
「あの」
  アニーはもう小走りに行ってしまっていた。

  15分後、105号室で患者の包帯を取り替えていたドリューは、ぽんと肩を叩かれて振り向いた。
  そこにはアニーがにこにこして立っていた。
「せしめてきたわよ。 はい、これ」
  あっさり横長の紙を差し出されて、ドリューは思わずエプロンで手をぬぐってから受け取った。
「まあ……ありがとうございます。いくらですか?」
「私のおごり」
  ドリューの表情が、すっと硬くなった。
「それは困ります。 ちゃんとお払いしますから」
「あのね、わけがあってその劇団をできるだけ沢山の人に見てもらいたいの。 だからあなたは大歓迎。 おごらせて、ね?」
  無邪気な笑顔で迫られて、ドリューは何と言ったらいいかわからなくなった。
  患者の処置をし終わって外に出たドリューに、アニーはさりげなく話しかけた。
「後で私の部屋に来てくれる? お話があるの」
「先生のお部屋に?」
「ええ、ちょっと大事な話」
  券をしっかり握って、ドリューは約束した。
「はい、行きます。何時ごろですか?」
 
  8時半、アニーは服の整理をしているフィービに宣言した。
「悪いけど、9時半までこの部屋を使わせて」
  フィービは噛みつきそうな表情でアニーを見た。
「男友達なんか連れこまないで」
「おあいにくさま。 女友達よ」
  足音荒く出て行くフィービの後ろ姿に、アニーは思い切りしかめ面をした。 まったく腹のたつ同室者だ。
  間もなく、ドリューがおずおずと入ってきた。 アニーは素早く体のサイズを目測した。
(だいじょうぶ。 ほぼ私と同じサイズだわ)
  安心させようとして、アニーはやさしく微笑みかけた。
「ね、ドリューさん、たしかに券は手に入ったけど、ひとつ面倒なことがあるの。 一等の桟敷席で、わりと目立つのよ。 イヴニングドレス持ってる?」
  少女は青ざめた。 思ってもみなかったのだ。 アニーはすかさず彼女の手を取って、衣装戸棚のところへ行った。
「気を悪くしないでね。 私には趣味の悪い祖父がいて、この髪とこの目の色だっていうのに、ピンクのドレスを押しつけてきたのよ。 似合うわけがないでしょう? だからあなたに着てもらえるとありがたいんだけど」
  そう言いながらアニーは、実際に祖父が誕生日だクリスマスだと機会を見つけては勝手に送りつけてくる箱の1つを開いた。
  ドリューは立ちすくんでいた。 余計なことを考えさせてはいけない。 アニーは半ば強引にドレスをあてがい、よく似合うわ! と叫び、すぐ着てみて、と命令した。 催眠術にかけられたように、ドリューは制服を脱いでドレスを着た。
  ここぞとばかり、アニーは彼女に飛びかかり、ピンでまとめた髪をほどいて、ブラシと髪飾りで一大魔術をほどこした。
  すっかり終わると、アニーはお世辞でなく感嘆した。
「きれい! すごくきれいよ!」
  そして、ドリューを鏡の前に押し出した。
  ドリューは、不思議なものを見るように、自分の姿を見つめた。
「これが私……?」
  うれしくなって、アニーはベッドの上で飛びはねた。
「その通り! まるでお姫様だわ!」
  ドリューの顔に、寂しい微笑が浮かんだ。
「シンデレラですね。 1日だけの」

  かぼちゃを馬車にしなくていい、にわか作りの魔女は、金曜日、つまり芝居の当日まではいい気分だった。 ところが、金曜日の朝に、はたと気付いた。 今夜は夜勤ではないか! さすがのアニーも、これには参った。
  午後まで思い悩んだあげく、やぶれかぶれになって、アニーは、本を読んでいたフィービに向き直った。
「フィービ。 今夜の夜勤を代わってくれと頼んだら、断るでしょうね」
  フィービは、ゆっくり顔を上げてアニーを眺め、妙に物憂げな声で言った。
「断らないと言ったら、あなた驚くでしょうね」
  アニーは目をむいた。 フィービは、カタンという音をさせて、本をテーブルに置いた。
「代わってあげるわ。 私だって鬼じゃないのよ」
  そして、礼を言う時間も与えずに出ていった。

  ドリューの服を殺さずに引き立てあう色として、アニーは茶色を選び、きちんと着付けしてマーシュ劇場に向かった。
  例によって、ジョーイは一分の隙もない身なりで、りゅうとしていたが、サンディのほうは体操でもしたらたちまち破れてしまうような感じで、はらはらさせられた。
「また背が伸びたんだよ。 いつになったら止まるのかな」
「そのまま行ったら屋根につかえるわね」
  同情もなく言って、アニーは彼の手に捕まって馬車を降りた。 ジョーイは礼儀正しくドリューを降ろした。 彼は、灰色のさなぎが不意に可憐な蝶になったのをいぶかしがっていた。

  それから、立て続けにいろいろ起こった。
  まず最初は、一同が桟敷席についたとたんに始まった。 隣りの席についていたテンプル氏が、アニーを見るなり身を乗り出して喜んだ。
「おお、アニー。 君も来ていたのか」
  アニーは一瞬言葉が出なくなった。 まずい。 これは確かにまずい! おじさんは、出演者の5番目に出ていた『ミッキー・ステュワート』が誰か、知っているのだろうか。
  それでもテンプル氏に挨拶のキスをして座ろうとして、アニーはサンディがいないのに気づいた。
  廊下に出てみると、彼は壁にもたれていた。 その顔を一目見て、アニーは思わず声を立てた。
「まあ、サンディ! 汗びっしょりだわ!」
  サンディは、囁くような声で答えた。
「気分が悪いんだ。 下で休んでるよ。 君は見ててくれ。 きっとすぐ直るから」
  そう言うと、彼はアニーを出入り口から押し込んで、早足で廊下を歩いていった。

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