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30 このキスは



 長いキスがようやく終わって顔が離れたとき、アニーは相手の顔を引っぱたく代わりに、まばたきもせずじっと見つめた。 茶色の髪と髭と眼鏡、このぼさっとした大男が、あの……あの《森の精》?!
  まじまじと見られたことを別の意味に取ったらしい。 サンディはうつむいて、低い声で言った。
「ごめん、もう友達じゃないね。 さよなら……」
  大股で遠ざかっていく青年を、アニーはあっけに取られて見送っていたが、すぐに飛び上がって後を追った。
「待って! 待って、サンディ!」
  サンディは立ち止まらなかった。 しかし、アニーはカモシカのように走って追いつき、腕を掴んだ。
「ねえ、あなたロビンを知ってる? ロビン・テンプルを?」
  たちまち男の足が止まった。
  ゆっくり振り向いたサンディの顔は真っ青だった。 うめくような声が響いた。
「どうして……」
「やっぱり知ってるのね。 友達?」
「いや!」
  激しい口調だった。 アニーはたじろいだ。 ロビンがどうしても彼の言う《天使》の話をしたがらなかったことを、アニーは思い出した。
  気がつくと、サンディが必死の眼差しで見つめ返していた。
「なぜ突然、ロビン・テンプルの名前を言い出したんだ?」
  困って、アニーはとっさに嘘をついた。
「あなたのね、あなたの眼がロビンに似てるから」
「似てるから彼を知ってることにはならないだろう?」
  仕方なく、アニーは半分だけ事実を言った。
「前にロビンが、自分にそっくりな男の子がもう一人いると言ったからよ」
  サンディは一瞬眼をつぶった。
「それから何て?」
「それだけ。 ロビンはそれ以上一言も話さなかったわ。 あなたのことを考えると死にたくなるって」
  沈黙が続いた。 緊張に耐えかねてアニーが顔を上げると、サンディの眼から涙が筋を引いて落ちるのが見えた。
  彼は素早く顔をそむけた。 アニーは頭が痛くなってきた。 明るいロビンと、穏やかだが芯の強そうなサンディが、2人とも涙を流すようなことって、一体何なのだ。
  そのとき、不意にジョーイの声がすぐそばで響いたので、ふたりとも飛び上がった。
「そんなところで何してるんだい! 深刻な顔してさ」
  急いでサンディの腕を取ると、アニーは無理をして笑ってみせた。
「この人がワルツ踊れないっていうから、教えてあげてたの。 でも結局だめだった」
  ジョーイはポケットに手を突っ込んで、のんびりと近づいてきた。
「ワルツはなかなか一回では踊れないよな。 今度のパーティーは僕と踊ろう、アニー」
  うなずいてみせながら、アニーは腹話術師のように口を閉じたままサンディに言い残した。
「怒ってないわ。 私たち、友達よ。 忘れないで」

  その晩、アニーは珍しく、ベッドに飛び込んだとたんにわけがわからなくなって熟睡するいつもの夜を迎えられなかった。 あのキスを思い出すと、胸がかっと熱くなる。 だが頭は冷えたままだった。 そして、混乱していた。
  幻のような思い出は、4年の時を経ていっそう美化され、おぼろげになっていた。 一方、サンディことダグラス・アルガー・サンダースは、あまりにも日常的で野暮な青年だ。 夢の美少年と、現実の大柄な若者を、一人の像に重ねることができなくて、アニーは困っていた。
  しかし、1つだけ、確信を持って言えることがあった。 アニーには彼を見分けられなくても、サンディは覚えていたのだ。 アニーを避ける素振りだったのは、関心がないからではなく、昔の記憶に縛られて自然に振舞えなかったかららしい。
  となると、ジョーイよけの盾どころか、もっとも危険な相手かもしれない。 アニーはベッドに沈み込んで、しかめ面になった。


31 新しい場所


 

 ふたりの関係は、それ以上進展せず、特に離れもせず、表面上は淡々と続いた。 こうして忙しく充実した月日が過ぎ、サンディとジョーイ、それにマーニーの男友達のハーブが卒業していった。
  双子星と呼ばれていたサンディとジョーイは、首尾よくニュースワンシーの同じ病院にインターンとして入ることができた。 しかし、ハーブはデトロイトの病院に回された。 それで、マーニーは自分もデトロイトに行くと決めて、事前運動を始めていた。
  最終学年の春、悲劇が起きた。 シャーリーの父が破産したのだ。 仲良しグループのメンバーは自分のことのように胸を痛め、後少しなのだからとカンパして卒業させようとした。 だがシャーリーは、青い顔をしながらも、決意した様子で答えた。
「どっちにしてもインターン期間が残ってるんだから、証書をもらおうとどうしようと大したことじゃないわ。 うちに帰って父を支えなきゃ。 みんな、ありがとう。 友情、一生忘れないわ」
  3ヵ月後、アニー達は、フィラデルフィアからの便りで、シャーリーが叔母の勧めに従い、中年の実業家と結婚式を挙げたことを知った。
  恋人だったルークは、数日間黙りこくっていた。 そして、夏にインターン先を決めるとき、はるか離れた西海岸を選んだ。

  アニーは少し迷った末、心を決めた。 ジョーイとサンディが卒業して去ったこの一年、とても寂しかったのだ。 他の男の子では埋めようのない心の隙間を、初めてアニーは自覚した。 そして悟った。 そばにいてほしいのは、ヤボッたくて無口で冗談ひとつ言わない、というより言えない、カントリーボーイのサンディなのだと。

  アニーは、ニュースワンシー一番の大病院で、ジョーイとサンディが日夜働いている、エリクソン総合病院に行くことにした。 成績抜群なので、無条件で行けた。
  ところが、フィービもエリクソンを志望したのだった。 一年の頃は大親友だったのに、サンディ達が現れたころから不意に冷たくなった、あの娘だ。
  アニーとフィービは、ここ10ヶ月ほど、まったく口をきいていなかった。 フィービが聞き捨てならないほど刺のある皮肉を言ったので、絶交状態になってしまったのだ。
  その皮肉とは、これだった。
「アニー。 あなた何人もの男性にかしずかれていなくちゃ我慢できないのね。 そういうのを医学上ではニンフォマニア〔多情淫乱型〕というのよ」
  その日以来2人きりになったのは初めてなので、バスで向かい合って座りながら、アニーもフィービもひどく気まずかった。

  病院前のバス停留所には、双子星が迎えに出ていた。 バスが止まる前から手を振って、大変な騒ぎだった。
「アニー! とうとう来たね! 待ち遠しかったよ!」
  ジョーイははしゃぎながらアニーの荷物を受け取った。 フィービはむっつりした表情で、アニーが降りてから急いで階段を下り、病院に向かおうとした。 そのとき、彼女に気付いたサンディが、深くやさしい声で言った。
「重そうだね。 持っていってあげよう」
  フィービは、一瞬足を止めてサンディを見つめた。 2人を偶然見ていたアニーは、そのとき、暗黙の了解が交わされたような気がした。
  フィービは、かすかに微笑んで頭を下げた。 サンディは、大きなトランクを遠足のバスケット並みに軽々と持って、歩き始めた。
  ジョーイは陽気だった。 少し陽気すぎるのではないかと思えるほどで、病院裏の寮に向かう間、ひっきりなしに喋り続けた。 サンディはいつも通り穏やかに黙っていた。 どうも彼だけが正常な雰囲気で、4人はぴりぴりした空気に包まれ、アニーは息苦しくなった。

  寮に着くと、アニーは更に失望することになった。 何と、フィービと同室にされている。 いくら女医の卵が2人きりとはいえ、フィービと同じ部屋とは! もう我慢の限界だ。 アニーは荷物を片付けるのもそこそこに、儀礼的な言葉を残しただけで寮を出て、デニー・テンプル氏(=ロビンの父親)のところへ、夕食を食べに行ってしまった。

  8日ほどして、アニーとフィービはだいぶ病院に慣れてきた。 ここでもアニーは大変な人気で、医師たちは老いも若きも彼女を助手に使いたがった。 一方フィービは結構美人なのに、つんとしていて愛想が悪いので、あまり人気がなかった。
  アニーは、それを気にしていた。 同性が自分のせいで影が薄くなるのを喜ぶようなアニーではない。 だから人前でフィービに冷たい扱いをされても、前のようにやりこめるのを控え、彼女を立てるようにした。 ところが皮肉なことに、それでかえって人気が一方的に上がってしまった。
  ややこしい人間関係にむしゃくしゃしていたアニーは、そのうえ物騒な戦争の噂まで流れてきたので、すっかり気分を害した。 何でもサラエボとかいうややこしい地名の土地でオーストリアの皇太子が暗殺され、またたく間にイギリスやフランスが参戦したという。 町に散る号外を眺めて、青年たちは複雑な表情で語り合った。

  そんな折、気分転換にもってこいのニュースをジョーイが持ってきた。 病院の食堂で、遅い昼食をかきこんでいたアニーの傍にべたっと座りこみ、ジョーイはヒラヒラと紙を振ってみせた。
「仕事ばかりじゃ大輪のバラが干からびるよ。 たまにはこんなの、どう?」
  パンフレットを受け取ったアニーは、目を寄せて派手な題字を見つめた。
「喜歌劇《メリーウィドウ》? 陽気な未亡人って、おばさんの話?」
  ジョーイはあきれて、指を振ってみせた。
「いけないね、お嬢さん。 レハールのオペレッタも知らないなんて。 ぜひ行こう。 教養を高めるためにも、絶対行くべし!」
「外国物はだめなんだ。 いつか叔父さんと《リゴレット》っていうオペラを見に行ったんだけど、2幕目でねむくなって、最終幕ではいびきかいてたらしい」
  あきれて、ジョーイはアニーを片目でにらんだ。
「あの悲劇で、しかもあの音量でか? 君はある意味すごいよ」
「叔父さんもそう言った」
「たしかに《メリーウィドウ》は外国の作品だけど、たぶん英語で演じてると思うよ。 楽しい話なんだから。 リゴレットと違ってコメディだし。 ね、行こう」
  疲れているし、断ろうと半ば決めていたアニーの視線が、パンフレットの一点に吸い付いた。 そこは、出演者たちの写真が並べられている部分だった。
  いっそう目を近づけてしばらく見つめていた後、アニーは不意に言った。
「行く」
「えっ」
  自分で言い出しながら、半ばあきらめていたジョーイは、思わず奇声を上げてしまった。
「ほんと?」
「うん」
「やった!」
  それからジョーイはそわそわし始めた。
「一応いい劇場でやるんだから、ドレスだよ」
「うん」
「うわー、楽しみ! 何色着てくる?」
「まだわからない」
  うっかりそう言ってしまって、アニーは顔をしかめた。 ドレスなどというものを何枚も持っていると仄めかしてしまったじゃないか。
  私のバカ、と反省していると、肩を叩かれた。
「アニー、ギデオン先生が呼んでる」
「はい」
「じゃ後でゆっくり相談しよう」
「そうね」
  アニーとジョーイはそそくさとテーブルを離れた。

  置き去りにされたパンフレットを、細い指がそっと拾い上げ、広げた。 そして素早くポケットに入れ、速足で立ち去った。

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