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28 キャンパスで



 20世紀に入ったとはいえ、まだ医科大学を目指す女性は数えるほどしかいなかった。 アニーが持ち前のエネルギーと頭脳で、17歳の秋にニュースワンシー郊外の医大に合格したとき、同学年に女性は彼女を含めて4人だけだった。
  自然、4人はとても仲よくなった。 シャーリー、フィービ、マーニーにアニー。 その中でも、アニーは特に、頑張りやのくせにどこか抜けているシャーリーと親しくなった。
 
 アニーは、名門のテンプル家とつながりがあることを知られたくなかったので、デニス氏の願いを振り切って寮に入った。
  文字通り、勉強、勉強の毎日が続いた。 アニーは、大学構内を歩く間にも医学書を手放さず、読みながら歩いた。 そのせいで、ある日ちょっとした事故を引き起こしてしまった。
  アニーは、情けない(と自分では本気で思っていた)ことに、男子学生にやたらと人気があった。 部活動のあらゆる分野で声をかけられ、食堂に行けば取り囲まれ、廊下を歩けば本を持ってあげようと話しかけられた。
  入学一ヶ月でナンパ男たちにあいそがつきて、アニーは校庭の外れにある手入れしていない一角に逃げ場を確保し、暗記しなければならないときは、そこへ隠れた。
  その日もドイツ語の本を持って、アニーは隠れ場に急いでいた。 木陰を抜けて、小道に一歩踏み出したとき、どこからか悲鳴に近い声が聞こえた。
「危ない!」
  次の瞬間、アニーは誰かに掴まれ、どっと押し倒されて、草の上に伸びた。 すぐ横を、馬が泡を吹きながら10メートルほども行き過ぎて止まった。
  乗り手が飛び降りて走り寄るのを、アニーは大きな体に押しつぶされたままで見た。
「大丈夫?!」
「ええ……ええ」
  ぎこちなく答えながら、アニーは助けてくれた男の腕に手をかけて立ち上がった。 男もゆっくり体を起こし、膝を伸ばした。 すると、アニーより頭ひとつ半ほども高く、見上げるような身長をしていた。
  乗り手はなおも心配そうに、アニーばかり見て尋ねた。
「本当に? どこか痛くない?」
「大丈夫。 あなたは?」
  この問いは、間一髪でアニーを助けてくれた背の高い男に向けられたものだった。
  男は長身を屈めてよれよれの帽子を拾い上げ、低く答えた。
「平気」
  アニーは、感謝の気持ちで一杯になって、彼の顔を下から覗きこもうとした。 なにしろ、乱れた茶色の髪しか見えなかったのだ。
「ありがとう。 本当に私、本を読みながら歩くなんて不注意だったわ」
  男は答えずに、地面を手探りしはじめた。 そして、小声で言った。
「ぼくの眼鏡……」
  アニーはあわてて見回した。 さいわい眼鏡は無事で、木の横に転がっていた。 アニーが拾って渡すと、男はすぐその眼鏡をかけて立ち去ろうとした。
  アニーはあわてて思わず彼の腕を掴んでしまった。
「待って! あなたは誰?」
  男はぱっと腕を振り切ると、大股で歩き去った。

  アニーは妙な、頼りない気持ちになった。 何と無愛想な男だ。 正体を知りたくなって、アニーは出来立ての情報網を駆使することにした。

  シャーリーは首をかしげた。
「茶色の髪で、眼鏡をかけていて、鼻の下に髭? なに、その人? 助教授かなにか?」
  そんな感じではないのだと、アニーは懸命に言った。
「ぼさぼさの髪で、髭もこんなふうに端が垂れてるの。 教授というよりカウボーイみたいなのよ」

  情報の集まりは悪かった。 ようやく彼の正体がわかったのは、10日も過ぎてからだった。 というのも、彼が転校生だったのがその理由だった。
「ローレンス大学から転入してきたんですって。 今2年生よ。 名前は、ええと、ダグラス・アルガー・サンダース。 相当いかめしい名前ね」
「怪我してるって?」
「いいえ。 普通に授業に出てるそうよ」
  よかった、何ともなかったんだ――アニーはほっと胸をなでおろした。

   その翌日、アニーは久しぶりにあの隠れ場所に行った。 今度は気をつけて、本はしっかりと脇にかかえていた。 それにもかかわらず、アニーはまた事故に遭遇してしまうのだが。
  茂みの横を抜けて、いつもと違う道筋で校庭の端に行こうとしたとき、アニーは突然つまずいた。 そして気がつくと、若い男の上に乗っていた。
  相手は当然飛び起きた。 それが誰だかわかって、アニーは真っ赤になった。
「まあ……ごめんなさい。 またあなたに痛い思いさせちゃって」
  ダグラス・アルガー・サンダースと判明した青年は、アニーに見向きもせず、急ぎ足で消えてしまった。

  たいして長くない人生だが、ともかくこれまでに、アニーは男性に敬遠された覚えは一度もなかった。 それでかえって強く印象に残った。 ちょっとしゃくに触ったし、興味も出てきたので、アニーはいたずら心を起こして、ある計画を思いついた。

  この医大の寮では、学生たちは2人で1部屋に住んでいた。 アニーは、D・Aと呼ばれているダグラス・アルガー・サンダースと同室の学生を探し、その青年ジョエル・カミングス、通称ジョーイに近づき、まんまと友達になった。
  ジョーイは有頂天だった。 アニーと友達になれるのは、男子の間では大変な名誉だったのだ。
  ジョーイは医者の息子で、よく勉強ができた。 アニーは彼に学科をみてもらい、結構役立てていた。 こうして数日間が過ぎ、もうそろそろ計画に入るころだと決めたアニーは、午後の授業の後にジョーイに尋ねた。
「もうじき創立記念日でしょう? 建校祭の余興に、私たち女子グループでヒルビリーをやるって決めたの。 あなたの同室の人、オクラホマ出身なんですって? カウボーイのこと、教えてもらえないかな。 それにできたら、チェックのシャツとズボンも貸してほしいんだけど」
  ジョーイは、DAに訊こうともしないで、二つ返事で引き受けてしまった。

  実際には、男装して田舎ダンスを踊るのはアニーだけだった。 他の娘たちはワンピースを着て踊るのは承知したが、付け髭とテンガロンハットはお断りだとはっきり言った。
  長身のシャーリーなんかは男の格好が似合いそうなのに、絶対に嫌がる。 訳を訊いてみたら、背が高すぎて子供時代から『おとこ女』とからかわれていたそうだ。
  まあ、一番のチビが男役をやるのも面白いかな、とアニーはあきらめ、DAの手ほどきを受けることにした。
 
 彼はその日の午後、ジョーイに半ば引きずられる形で、図書館の裏にやってきた。
「本物のカウボーイなんだよ。ロープで牛の角をからめて捕まえるんだって」
  自分のことのようにジョーイが自慢したが、DAはうつむいたままで、顔を上げようとしない。 よほどの照れ屋らしかった。
  ほんとのことを言えば、アニーにもロープかけはできた。 体重が軽すぎて牛に引っ張られてしまうから親たちが許してくれなかったが、他にも裸馬に乗ったり蹄鉄投げをしたり、牛飼いのすることはたいていやってのけた。 ただ、噛み煙草だけは歯が黄色くなるので遠慮したが。
  それでも無邪気に眼を見張って、アニーは感心してみせた。
「すごい! 見せて!」
「ロープがないから」
  大きな体のくせに蚊のなくような声で、DAは答えた。 すかさずアニーは背後の箱からロープを出して渡した。 しかたなく、DAは頭上で輪を大きくして回し、近くの枝にすっとかけた。
  気のない仕草で、さりげなくやったので、娘たちはお義理の拍手をしただけだった。 しかし、アニーは驚いていくらか眼を大きくした。 真横に突き出して、しかも垂れ下がっている枝にロープをかけるのは、見た目ほど簡単ではない。 DAは地味だがあなどれない男らしかった。

  DAがフランネルのシャツを、ジョーイが子供時代(!)のズボンを貸してくれることになって、アニーの衣装は整った。 建校祭では、巨大な付け髭をつけ、ダブダブのシャツで歌い踊るアニーは爆笑の渦を引き起こし、大受けとなった。

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