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27 意外な人



 その日は朝から雪が降っていた。 ルイーズは、あまり雪が好きではないので首をすくめ、マフにしっかりと手を突っこんで歩いた。
  角を曲がろうとしたとき、向かい側の道から声がかかった。
  「ルイーズ! 役がついたんだってね、おめでとう! 俺たち応援してるからね!」
  笑顔で手を振ってしばらく歩いたところで、ルイーズは声の主を思い出しておかしくなった。 それは『ハンチング』、つまり昔のイジメッ子だったのだ。 彼は今では伯父の店の手伝いをしていて、もうじき結婚するという話だった。
 
  運動を兼ねて急ぎ足で劇団の門を入ったとき、雪の中に佇んで入口を眺めていた男が振り返った。 ルイーズは、特に気にとめずに歩きつづけた。 すると男は、一歩ルイーズの方に歩み寄って、張りのある声で呼びかけた。
「失礼。ここはリイス&ゴードン劇団ですね? 入団テストを受けたいのですが、受付を教えてくれますか?」
  あっ、とルイーズは思った。 視力の弱い者によくある現象で、ルイーズは聴覚が非常に発達していた。 数年前でも、一度聞いたことのある声はめったに忘れない。 とりわけ特殊な状況で耳にした特徴のある声は。
(あのときは随分失礼だったわね。 すっかり見忘れて、今は猫かぶってるけど)
  同じ朝の、奇妙な二つの出会いに、愉快な気分になって、ルイーズは何食わぬ顔で教えてやった。
「入って右側、2つ目のドアです」
「ありがとう」
  手短に言って、青年はさっさと入っていった。 ルイーズを先に通そうという気はまるでないらしい。 さすが『皮肉屋』 変わってないわ、とルイーズは一人で思い出し笑いした。
  帰りの船で出会ったあの自殺志願の青年、それが彼だったのだ。
  そこへ、肩をぽんと叩かれた。
「どうしたの? うれしそうだね」
  ルイーズは振り向いてミッキーを見上げた。
「そう?」
「そうさ。 台本事件以来、久しぶりに笑ってた」
  ルイーズは苦笑いした。 台本事件とミッキーが形容した小事件は、2週間ほど前に、劇団の若手女優が引き起こしたごたごたで、ルイーズにほぼ決まっていた役を、ジャクリーヌ・アランという女優の卵が、脚本家と親密になることで奪おうとした事件だった。
  ただし、公平な性格の団長がいち早く気付いて、役の横取りは成功しなかった。 逆恨みしたジャッキー〔ジャクリーヌの愛称〕は、団長がグロリア・ケントと仲がいいから娘に役をつけたのだと言いふらし、一部でそのデマを信じている者もいた。
  ルイーズは、嫌な気分を振り払うように、さっと手入れのいい金褐色の巻き毛を振った。
「あれはもういいのよ。 団長のおかげで無事すんだし」
「正々堂々と闘えない奴は困ったもんだ」
  ジャッキーたちがそばを通るのを見て、ミッキーは声を張り上げた。 ジャッキーとモイラは顔を見合わせた。
  脇をすり抜けるようにして通りながら、ジャッキーはモイラに話しかけた。
「男の同情を引こうとする女って、いやねえ」
  モイラが返事をする前に、ミッキーが後を引き取った。
「ベッドで役を取ろうとする女はもっといやだよね、モイラ?」
  ジャッキーの顔が真紅に染まった。 モイラは当惑して、どっちつかずの返事をすると、あわてて廊下に入ってしまった。
  ルイーズは、感心してミッキーを見た。
「言いにくいことをはっきり言っちゃうのね。 うらやましいわ。 ずばり言っても全然嫌われないんですもの」
「君だって大丈夫だよ。 もっと言いなよ」
  ミッキーは、けろりとしていた。
「君は少し我慢しすぎなんだ」
  「こればかりは生まれつきだから」
と、ルイーズは笑った。
「あなたのは特殊才能よ。 貴重だわ」
「なんの。 うちの又いとこの啖呵〔たんか〕を聞いてみるといいよ。 僕は彼女に鍛えられたんだ」
  話しながら廊下を歩いていると、不意にドアが開いて誰かが出てきた。 あまり勢いよく飛び出してきたので、その男はミッキーにどしんとぶつかってしまった。
「失礼」
「いや、君、大丈夫」
  また『皮肉屋』だわ。とルイーズが思っていると、青年は服の乱れを直してミッキーに話しかけた。
「マイケル・ステュワートさんですか?」
「そう。 何か用?」
  ミッキーは全然くったくがなかった。 青年は、腕をきちんと両脇に下げて、紳士服のモデルのような格好で言った。
「バリー・テイラーといいます。 ランドルフ演劇学校を出て、今度この劇団に入ることになったので、よろしく」
「こっちこそ」
  勢いよくテイラー青年の手を握ると、ミッキーは楽しげに言った。
「こちらはルイーズ・マレイさん。 きれいでしょう? 娘役の期待の星なんだよ」
  ルイーズは手を差し出した。 しかし、バリー・テイラー氏はその手が見えなかったらしく、そっけない口調で、やあ、と言っただけで、ミッキーの方を向いてしまった。
「ここは特に練習が厳しいそうですね」
「どうかな。 僕はよそを知らないんだ。 大学の演劇部しか経験がないから。 でも君ぐらい発音がいいなら、あまり苦労はないんじゃないかな」
  少々意地悪い気持ちになって、ルイーズはさりげなく尋ねた。
「ニュージーランドの方?」
  テイラーは短く答えた。
「イングランドです」
「そう。 ルイーズもイギリスにいたことがあるんだよ。 留学してたんだ」
  バリー・テイラーは、初めてまともにルイーズを見た。
「演劇学校に?」
「いいえ、農業学校よ」
  ミッキーが、おかしそうにルイーズを眺めた。
「冗談ですよ。 何とかいう名門の女子校に行ってたんだから」
「ああ、役に立たないことばかり教えるところですね」
  この相手だと、ルイーズはどうも冷静でいられなかった。
「演劇が役に立つとは、私には思えないんだけど」
  ミッキーは、すっかり面白がってしまった。
「確かに芝居とか音楽は、実用価値はないよね」
「社交界のデビューの仕方とか花の活け方なんかよりは実用的でしょう」
「そんなもの習わなかったわ。 ラテン語と馬術はやったけど」
「それこそ役に立たないものの典型た」
「知識は広いほど応用がきくものよ」
「ひけらかして鼻持ちならなくなるだけだよ」
  だんだん話がけわしくなってきたので、ミッキーも面白がるのをやめて間に入った。
「そこまで! タイトルマッチはまた次の機会にね。 さあ、ルイーズ。 練習に遅れるよ」
  ルイーズをエスコートして練習場への通路を歩きながら、ミッキーは思い出したようにぽつりと言った。
「さっきのあの青年ね」
「なに?」
  ルイーズが何気なく訊くと、ミッキーは考え込みながら続けた。
「アレックスに似てると思ったんだ」
  再会してから、アレックスが2人の話題に上ったのは初めてだった。
  ルイーズは、胸を冷たい手で掴まれたような気持ちになったが、できるだけ平静を装って答えた。
「よくわからないわ。 眼鏡かけてないから」
「そうか、そうだね」
  ミッキーは優しくルイーズに微笑みかけた。
「アレックスがうんとおしゃれして、3倍ぐらい気取ったら、きっとあんな感じになるよ」
  そのとたん、ルイーズは勇気を奮い起こして。唐突に尋ねた。
「あの、アレックスが今どうしてるか知ってる?」
  その声に何かを感じ取ったのだろう。 ミッキーはまじめな表情になってルイーズを見た。
「いいや。 オーウェル家には近づかないようにしてるから。 ナディア夫人は僕の義理の母の姉なんだよ。 だから僕のことがばれれば、あっという間にうちに通報される。 それじゃ困るんだ。 少なくとも、ちゃんとした役がついて、父に顔向けできるようになった後じゃないと」
  ルイーズを見つめたまま、ミッキーは静かに訊いた。
「アレックスは家にいないのかい?」
  ルイーズは元気なく首を振った。
「連絡はないの? 手紙か何か」
「なにも」
  いっそう元気をなくした声を聞いて、ミッキーはわざと明るく付け加えた。
「無事だという証拠かもしれないよ。 何かあったら、君にだけは必ず連絡しそうだから。 彼が信じていた人間は、クラレンスと君だけだったよ」
  ルイーズの表情が、少しだけ光を帯びた。
 

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