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24 別れのとき



 ショーウィンドウに飾られたマネキンのようなその婦人は、レースのついた手袋を軽く直し、日傘を持ち替えて、ジェーンに微笑みかけた。
「ちょっとお話、いいかしら」
「となたですか」
  無意識に固い声が出た。 ジェーンはこういう上流の奥様たちが、苦手中の苦手だった。
「私? ミセス・オーウェルよ。 そう言ってもあなたは知らないでしょうけど。 こう言えばわかるかしら。 あなたが一緒に住んでいる青年の、義理の叔母に当たるの」
  ジェーンの眼が翳りを帯びた。 たしかミッキーは、天涯孤独の身だと……
  ナディア・オーウェルは優雅な動作で背後の車を指した。
「立ち話は疲れるわ。 あそこで話しません?」
  敵の匂いがする女性の車に乗り込む気はない。 ジェーンは首を振って、きっぱりと言い返した。
「私仕事があって忙しいので」
「忙しいのは私も同じよ」
  ナディアの猫に似た眼がかすかに細められた。
「はっきり言うわ。 ロビンをあきらめなさい」
「ロビン?」
  背中に冷たい汗が伝った。 誰? ロビンって。
「マイケル・ロビン・テンプル。 ここじゃミッキーって名乗ってるようね。 彼は、本当は船乗りなんかじゃないの。 中西部の富豪の息子。 ゆくゆくは社長になる身なのよ」
  赤く塗った口が、にんまりと横に開いた。
「だから、孤児、それも身元不明の自殺未遂者を妻にできるわけないでしょう? わかるわね」
「そんな……そんな話、信じません!」
  小声で叫びながら、ジェーンの指はさっき買った包みを強く握りしめた。 包装紙の破れる音がわずかに聞こえた。
「信じられなくても事実だから。 彼はいい子だけど飽きっぽいの。 軽はずみな結婚は身を滅ぼす元よ。 第一、彼の家族が認めないわ」
「家族?」
  ジェーンは震えながら尋ねた。 ナディアはうなずいた。
「ニュースワンシーに両親がいるわ。 嘘だと思ったら問い合わせてみて。 これが電話番号」
  紫色の手帳を取り出して、ナディア夫人はさらさらと番号を書き、ページを破ってジェーンに渡した。 手袋から香水の匂いがただよってきた。
  一歩近寄って、ナディアはやさしげに囁いた。
「今あきらめれば、悪いようにはしないわ。 ここに2千ドルあるの。 これを元手に商売でも始めたら? ね?」
  なんてことだろう。 ジェーンは絹の棍棒で殴りつけられたような気がした。 当たりはやわらかいが、効果は致命的だ。
  ミッキー、ミッキー! あなたはお金持ちなの? それに、お父さんもお母さんもいるの?―― 道端に崩れそうになって、ジェーンはよろめいた。
  すかさずナディアは、車の横に立っていた屈強な運転手に合図して、ジェーンを抱き上げてシートに座らせた。
  不規則にあえぎながら、ジェーンはつぶやいた。
「信じません。 私、とても信じられない」
「そりゃそうね」
  珍しく忍耐強く、ナディアは相槌を打った。 、心の中ではにんまりしていた。
――この子、思ったよりすれてないわ。 チョロまかすなんて簡単だわね――

  ナディアはジェーンをオーウェル家に連れていき、電話をかけさせた。
  応対に出たのはメイドで、それから奥様に代わった。 その時点で、ジェーンは敗北を認めかけていた。
  いくらか鼻にかかった声が呼びかけてきた。
「もしもし」
  ジェーンは唾を飲み込み、弱々しく尋ねた。
「あの、ロビン・テンプルさんって……」
  息が喉に詰まった。 鼻にかかった声は、少しかん高くなった。
「ロビン? あなたロビンのこと何か知っているの? もしかして、手紙に書いてあった人?」
  手紙…… ジェーンの喉がからからに渇いた。
  鼻声は相手おかまいなしに続いた。
「あの子、妙な手紙をよこして、うっかり深い仲になったから責任とって結婚するだなんて、言ってきたのよ。 若いから何でもまっすぐに考えてしまうのね。 でもそんな結婚、不幸になるにきまってるわ。 もしもし? 聞こえてる?」
  重い受話器をナディアに渡して、ジェーンは顔を覆った。


 その夜、ジェーンは明け方近くまで荷造りをしていた。 荷物がそんなにあったわけではない。 手がなかなか動いてくれなかったのだ。
  ナディアは無理やり金を置いていった。 別れる覚悟ができたとき、ジェーンはその金を受け取ることにした。 有名な何とか姫というオペラみたいだけど、身を引くことしか、ミッキーを救う道はないという気がした。
「私には何もないから」
  ひびの入った小さな鏡をのぞいて、ジェーンは自分に話しかけた。 貧しい農家に生まれた8人目の子供。 都会に子守りとして奉公に出たが、奥さんの留守に旦那さんに襲われて、家を飛び出した。 慣れない酒場勤めで男に言い寄られ、進退窮まっていたところをアレックスに救われた……
「でもただ面倒かけるだけで」
  だから出ていくしかなかった。 それでも堅気の仕事を探し回った。 努力はしたのだが、酒場にいたヤクザに発見され、逃げ場を失って海に飛び込んだ。
「死んだほうがましだった。 あんなところに戻るより」

  大粒の涙が、窓辺の縁に置いた紙きれに落ちた。 ジェーンはあわてて目を拭い、紙についた跡を指で払った。
  彼にあいそをつかされなければならない。 バカで浮わついた娘だと思わせなければ、きっと探そうとするだろう。 小さくしゃくりあげながら、ジェーンは鉛筆の先をなめて、のろのろと書き出した。
『やさしいミッキー
    お世話になりました。 実は今日、街で前に知っていた行商の人とばったり会ってしまったんです。 昔の仲に戻らないかと言われて、ついその気になりました。 彼と行きます。 ごめんなさい。    ジェーン』
  紙を畳んでベッドに置き、その上に、さっき胸をわくわくさせながら買った懐中時計を載せた。
  こらえきれなくてまた涙がこぼれた。 手に持った札束をじっと見つめて、考えた。
――こんなお金より、ミッキーが欲しい。 やっとわかった。 芯から好きになってたことが――
  そのとき、思いついたことがあった。 そうだ! これなら、私にもできるかもしれない! ジェーンは思わず椅子から立ち上がった。

 


25 冬の歩道で



 木枯らしの吹き荒れる街を、ミッキーは走り抜けた。 仕立て屋、古着屋、それに貸し本屋。 行きつけの青物店や肉屋、お菓子の店…… 心当たりは全部行ってみたが、誰もジェーンを見ていなかった。
  午前中に土産の手袋を持って、軽い足取りでアパートに帰ってきてから、まだ一時間しか経っていない。 だが、ミッキーには永遠に続く闇の時に思えた。
  大家さんも知らなかった。
「え? ジェーンがいない? 嘘でしょう。 今朝早くにはいたわよ。 いつも通り牛乳取って、にこっとして階段上がっていったんだから」
  部屋の中はほとんど元通りだった。 ほとんど、というのは、ジェーンが最初に着ていた黒い服だけがなくなっていたからだ。 後はすべて残されていた。  小さな針刺しや指ぬきまで。、
  走りながら、ミッキーは苦しんでいた。 胸に焼きゴテを当てられたようだ。 行商人…… きっと二枚目なんだろう。 セールスマンには魅力的な男が多い。 客に受けがいいからだ。
  顔なら、僕だってほんとは悪くないんだ、とミッキーは大声で叫びたかった。 早く髭を剃っておけばよかったと、心底思った。 初対面でジェーンはあんなに怖がっていたのに、気にとめなかった自分が鈍かった。

  息を乱して、ミッキーは四つ角でとちらに行こうかと見渡した。 まさにそのときだった。 見覚えのある金褐色の巻き毛が、目の端にひらめいた。
  ミッキーは飛び上がり、荷馬車の直前を突っ切って、道の向こう側に突進した。 そして、茶色のコートを着た娘の肩に手をかけた。
「きゃっ!」
  小さな悲鳴を上げて、娘は身をすくませた。 おそるおそる振り向いた娘の顔を見て、ミッキーは体中が冷えるのを感じた。
  全然違う。 眼も、鼻も、口元も……
  ミッキーは、落ち込む心をはげまして、やっとの思いで詫びた。
「すみません。 人違いでした」
  顔を見ないうちに悲鳴を上げるぐらいなら、髭面を見たらもっとショックだっただろうと、ミッキーは思った。 しかし、妙なことに、その娘は彼の海賊面を目にして、逆に胸を撫でおろしたらしく、低い魅力的な声でやさしく答えた。
「いいんです。 気になさらないで」
  ミキーは頭を軽く下げて立ち去ろうとした。 そのとき、いきなり娘のきゃしゃな手がミッキーの腕に触れ、ごく小さなささやきが聞こえた。
「お友達のように振舞っていただけません? あの角まで」
  ミッキーが驚くひまもないうちに、りゅうとしたスーツに身を包んだ青年が二人の前に姿を現した。
  それは、ミッキーよりわずかに背が低いぐらいの、中肉中背の青年だった。 見るからに切れそうな顔をしている。 器量よしだが、もてるタイプじゃない。 あまりにも自分に自信を持ちすぎているから――ミッキーはとっさにそう感じた。
  青年は、やや目を細めて娘を眺め、硬質な響きのある声で言った。
「こんにちは、ルイーズ。 これから劇団に行くところなんだ。 一緒に行っていいかい?」
  ていねいな言葉遣いだ。 態度にも問題はなかった。 それにもかかわらず、ミッキーははっきりと不快なものを感じ取った。 ルイーズと呼ばれた娘をちらっと見ると、彼女はもう落ち着いていて、おだやかに答えた。
「どうぞ」
  承諾を得てから、青年はすっと視線を動かして、ミッキーを見た。
「君の友達?」
「そうです」
と、ミッキーはすぐに返事した。
「僕はマイケル・ステュワート。 君は?」
  青年の口元に、馬鹿にしたような皺が寄った。 しかし、ともかく答えることは答えた。
「ヴィック・ギルフォード」
「よろしく」
  ミッキーは気さくに手を出したが、ギルフォードはルイーズの方に目を移して、その手を無視した。 ミッキーはちょっと肩をすくめて、手を引っこめた。
  ギルフォードはミッキーをのけ者にすると決めたようだった。
「ねえ。ルイーズ。 来週のモーリー家のパーティーに出席するかい?」
「いいえ、本読みの稽古があるから」
「そう。じゃ、サリーの誕生パーテイーは?」
「行くわ」
  3人は通りの角に来た。 ルイーズは、急に思いついたらしく、声を上げた。
「そうだ! うちに仮縫いの衣装忘れてきちゃったわ!」
  そして、ヴィック・ギルフォードが口を挟む前に、ごく自然にミッキーの腕を取った。
「あなたに渡したいものもあるの。 久ぶりに会えたんですものね。 一緒に来てね」
  ミッキーがうなずくと、すぐにルイーズはギルフォードを振り向いた。
「先に行っていてね。 30分で行くわ」
  やや間を置いて、ギルフォードは苦笑いを浮かべた。
「どうぞ、ごゆっくり」


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