「服を買いに行こう」
そう不意に言われて、ジェーンは驚いて顔を上げた。
「服?」
「そうだよ。 君は、最初に着てた黒い服と、それからメイジーさんにもらったお古の青いやつしか持ってないから」
「2着あれば大丈夫よ」
ミッキーは笑って指を立てて見せた。
「だめ。 ほら、給料もらったから、ふたりで買いに行こう!」
ジェーンが恐れたとおり、買い物は服だけではすまなかった。 下着に帽子に、靴だって必要だ。 値段を見ては断りつづけ、結局古着屋に行くことに決めた。
ミッキーは少し機嫌を損ねた。
「金ならあるのに」
「あなたのお金よ。 汗水たらして働いて、やっともらった週給じゃないの。 楽しいことに使って」
「君と買い物してると楽しいんだよ」
言った後で、ミッキーはふと足が止まりそうになった 。今何気なしに言ったことが本音だと気づいたからだ。
突然まじめな顔になったミッキーを、ジェーンは気がかりな表情で見上げた。
「どうしたの?」
「え?」
考えにのめりこみそうになってジェーンの声に引き戻されたミッキーは、唐突に口走った。
「もう1つ部屋を借りよう」
「えっ?」
今度驚いて聞き返すのはジェーンの方だった。 ミッキーは、道をさっと横切った猫を視線で追いながら、こもった声で言った。
「もう君はこんなに元気だし、同じ部屋にいると、オレ、まずいことになる気がするんだ」
それから2ブロックほど、2人は無言で歩いた。 その間に、ジェーンは心を決めた。
『ゴールドプラムの古着屋』という看板が見えてきた四つ角で、ジェーンは足を止め、指をぎゅっと組んで、口を開いた。
「ミッキー」
彼も立ち止まって穏やかに訊き返した。
「なに?」
「私、同じ部屋でいい」
ミッキーはしばらく無言だった。 そこへ、四角いフォードが盛大に水溜りを蹴散らして角を曲がってきた。 もう車道に降りていたジェーンを素早く歩道に抱きあげて、ミッキーはそのまま太い両腕の中にジェーンを包みこんだ。
翌朝、子猫のように伸びをして、ベッドの中で目を開けたジェーンは、かたわらの大きな姿が消えているのを発見して、なぜか急に心細くなり、白いモスリンの寝巻きのまま起きだした。
窓際に置かれたゼラニウムの鉢が乾いている。 水差しから冷たい水をそそぎながら、ジェーンはさりげなくガラス越しに下をながめた。
するとミッキーが立っているのが見えた。 牛乳配達の車を呼び止めて、何事か話し合っている。 すぐに男が1クオート入りの瓶を手渡し、ミッキーがポケットからコインを出して支払った。
ジェーンの顔に微笑が浮かんだ。 ヘビー級のボクサーみたいな体格をしているのに、ミッキーにはとても繊細なところがある。 あの大きな体でベッドをゆらさずに起きるのは、相当気を遣っただろうとジェーンは思った。 それでも彼は、5時に配達する牛乳屋をつかまえたかったのだ。 ミルクが好きだと言ったジェーンのために。 バラ百本の花束をもらうより、あの牛乳1瓶のほうがずっとうれしい、とジェーンは思った。
これは恋なんだろうか――ジェーンにはわからなかった。 アレックスに感じた、胸が絞られるような切なさとは違う、優しさがじんわりにじみ出るようなこの感覚。 これは感謝の思いなんだろうか……
そこではっと気づいて、ジェーンは黒い服のポケットを探り、よれよれになって水ににじんだ紙切れを取り出した。 そこにはホテル・レイモンドの電話番号が書いてあった。
クラレンスから借りた鉛筆でメモしたので、字は海水で消えずに残っていた。 歯を食いしばって、ジェーンことジャンヌ・ドリューは自分に言い聞かせた。
「あの人に言おう。 恋人ができたって。 勝手に出てきたことを詫びて、それで終りにしよう。 これからはミッキーのことだけ、彼だけを考えよう」
その日の午後、ジェーンが大家さんと買い物に行っていいかと訊いたとき、珍しくミッキーはついていくとは言わなかった。 ふたりはそれぞれ、やりたいことがあった。 お互いに知られぬように。
篭を持ったジェーンの姿が角を曲がって見えなくなるとすぐに、ミッキーは固いカバンを窓辺に持ち出して、座った膝に乗せ、せっせと手紙を書き始めた。
『お父さん
久しぶりです。 心配していたと思いますが、僕は元気にやっています。 体重は家を出たときの1.5倍、腕の太さは2倍になりました。
年末にはうちに帰りたいと思います。 できれば花嫁を連れて。 まだ申し込んではいませんが、初めて好きになった人です。 ジェーン・ドリューといって、どうも家出してきたようです。 まだはっきりと言ってくれません。 でも僕を信頼するようになったら、必ず話してくれるでしょう。
では、クリスマスに会うのを楽しみに。
ロビン』
ままごとのような生活が始まった。 もともと清潔好きなミッキーは部屋をきれいに片づけていたが、ジェーンが同居するようになってから、たださっぱりしていただけの部屋にうるおいが加わった。
お針子のアルバイトを始めたジェーンは、端切れをもらってきてつなぎ合わせ、布団やクッションや、果ては縦縞のカーテンまで作ってしまった。 かけはぎの方も相変わらず続けていて、こちらは婦人服の修理ができるほど腕をあげた。
根を詰めてやると、指先と眼が痛む。 暗い電気の下で細かい仕事をするのを、ミッキーはあまり喜ばなかった。
「昼間はいいけど、夜はあまり長くやらないほうがいいよ。 目に悪い」
電気は大都会では送電線が張り巡らされて完備していたが、田舎はまだガス灯や石油ランプの残っていた時代だった。 その電気もまだ光が弱く、送電は不安定で、電球はすぐに切れたので、人々はロウソクやランプをを常備していた。
ジェーンは顔を上げて微笑み、つくろい物をテーブルに置いた。
「そうね。 もう寝ましょう」
翌日、ミッキーは船に乗った。 また2週間留守にすることになる。 ジェーンは下着やタオルを包みにして持っていき、手を振って船を見送った。 ミッキーが甲板で同僚に押しまくられているのが見えた。
「おい、どこであんなかわいい子見つけた!」
「おまえには似合わねえよ。 美女と野獣ってやつか」
何を言われても、ミッキーはだらしなくにやにやしているだけで、視線はずっとジェーンに据えられていた。 ジェーンは空になった篭を大きくうち振り、船が航跡を残して港のかなたに消えるまで見送った。
仕立て屋にドレスを持っていって、もらった工賃を握りしめながら、ジェーンは目抜き通りの時計店を覗いていた。 買うためではない。 新品がいくらぐらいか調べていたのだ。
「20ドル……高いのね。 飾りがないのに」
銀色で、ネジに縄目模様が彫りこんである懐中時計が気に入った。 たしか古道具屋のイワンの店に、似たようなのがあったと記憶している。
「5ドル以内で買えるといいんだけど」
くしゃくしゃの札を汗ばんだ手で握りしめて、ジェーンはイワンの店に急いだ。
さいわい、質流れの時計は売れ残っていた。 しかも先週より50セント安くなっている。うれしくて、ジェーンの顔がほころんだ。
「3ドルと75セント…… 決めた! 買っちゃおう」
もちろんミッキーのためだった。 彼は時計を持っていない。 中古で、しかも安物だけど、喜んでもらえると自信があった。
うきうきと歩いていたジェーンの足が、不意に止まった。 というより、止められた。 何層にも重なった絹のひだが、横になびいてジェーンの粗末な靴を遮った。
目の前にいたのは、見知らぬ婦人だった。 曇りなのにしゃれたレースの日傘を持ち、粋にかしげた大きな帽子の下から、緑色の眼でジェーンを見据えた。
「あなたがジェーン・ドリューさん?」
答える代わりに、ジェーンは一歩後ずさった。
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