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23  2人の世界



「服を買いに行こう」
  そう不意に言われて、ジェーンは驚いて顔を上げた。
「服?」
「そうだよ。 君は、最初に着てた黒い服と、それからメイジーさんにもらったお古の青いやつしか持ってないから」
「2着あれば大丈夫よ」
  ミッキーは笑って指を立てて見せた。
「だめ。 ほら、給料もらったから、ふたりで買いに行こう!」

  ジェーンが恐れたとおり、買い物は服だけではすまなかった。 下着に帽子に、靴だって必要だ。 値段を見ては断りつづけ、結局古着屋に行くことに決めた。
  ミッキーは少し機嫌を損ねた。
「金ならあるのに」
「あなたのお金よ。 汗水たらして働いて、やっともらった週給じゃないの。 楽しいことに使って」
「君と買い物してると楽しいんだよ」
  言った後で、ミッキーはふと足が止まりそうになった 。今何気なしに言ったことが本音だと気づいたからだ。
  突然まじめな顔になったミッキーを、ジェーンは気がかりな表情で見上げた。
「どうしたの?」
「え?」
  考えにのめりこみそうになってジェーンの声に引き戻されたミッキーは、唐突に口走った。
「もう1つ部屋を借りよう」
「えっ?」
  今度驚いて聞き返すのはジェーンの方だった。 ミッキーは、道をさっと横切った猫を視線で追いながら、こもった声で言った。
「もう君はこんなに元気だし、同じ部屋にいると、オレ、まずいことになる気がするんだ」
  それから2ブロックほど、2人は無言で歩いた。 その間に、ジェーンは心を決めた。
  『ゴールドプラムの古着屋』という看板が見えてきた四つ角で、ジェーンは足を止め、指をぎゅっと組んで、口を開いた。
「ミッキー」
  彼も立ち止まって穏やかに訊き返した。
「なに?」
「私、同じ部屋でいい」
  ミッキーはしばらく無言だった。 そこへ、四角いフォードが盛大に水溜りを蹴散らして角を曲がってきた。 もう車道に降りていたジェーンを素早く歩道に抱きあげて、ミッキーはそのまま太い両腕の中にジェーンを包みこんだ。

   翌朝、子猫のように伸びをして、ベッドの中で目を開けたジェーンは、かたわらの大きな姿が消えているのを発見して、なぜか急に心細くなり、白いモスリンの寝巻きのまま起きだした。
  窓際に置かれたゼラニウムの鉢が乾いている。 水差しから冷たい水をそそぎながら、ジェーンはさりげなくガラス越しに下をながめた。
  するとミッキーが立っているのが見えた。 牛乳配達の車を呼び止めて、何事か話し合っている。 すぐに男が1クオート入りの瓶を手渡し、ミッキーがポケットからコインを出して支払った。
  ジェーンの顔に微笑が浮かんだ。 ヘビー級のボクサーみたいな体格をしているのに、ミッキーにはとても繊細なところがある。 あの大きな体でベッドをゆらさずに起きるのは、相当気を遣っただろうとジェーンは思った。 それでも彼は、5時に配達する牛乳屋をつかまえたかったのだ。 ミルクが好きだと言ったジェーンのために。 バラ百本の花束をもらうより、あの牛乳1瓶のほうがずっとうれしい、とジェーンは思った。
  これは恋なんだろうか――ジェーンにはわからなかった。 アレックスに感じた、胸が絞られるような切なさとは違う、優しさがじんわりにじみ出るようなこの感覚。 これは感謝の思いなんだろうか……
  そこではっと気づいて、ジェーンは黒い服のポケットを探り、よれよれになって水ににじんだ紙切れを取り出した。 そこにはホテル・レイモンドの電話番号が書いてあった。
  クラレンスから借りた鉛筆でメモしたので、字は海水で消えずに残っていた。 歯を食いしばって、ジェーンことジャンヌ・ドリューは自分に言い聞かせた。
「あの人に言おう。 恋人ができたって。 勝手に出てきたことを詫びて、それで終りにしよう。 これからはミッキーのことだけ、彼だけを考えよう」

  その日の午後、ジェーンが大家さんと買い物に行っていいかと訊いたとき、珍しくミッキーはついていくとは言わなかった。 ふたりはそれぞれ、やりたいことがあった。 お互いに知られぬように。
  篭を持ったジェーンの姿が角を曲がって見えなくなるとすぐに、ミッキーは固いカバンを窓辺に持ち出して、座った膝に乗せ、せっせと手紙を書き始めた。
『お父さん
  久しぶりです。 心配していたと思いますが、僕は元気にやっています。 体重は家を出たときの1.5倍、腕の太さは2倍になりました。
  年末にはうちに帰りたいと思います。 できれば花嫁を連れて。 まだ申し込んではいませんが、初めて好きになった人です。 ジェーン・ドリューといって、どうも家出してきたようです。 まだはっきりと言ってくれません。 でも僕を信頼するようになったら、必ず話してくれるでしょう。
  では、クリスマスに会うのを楽しみに。
             ロビン』
 

 ままごとのような生活が始まった。 もともと清潔好きなミッキーは部屋をきれいに片づけていたが、ジェーンが同居するようになってから、たださっぱりしていただけの部屋にうるおいが加わった。
  お針子のアルバイトを始めたジェーンは、端切れをもらってきてつなぎ合わせ、布団やクッションや、果ては縦縞のカーテンまで作ってしまった。 かけはぎの方も相変わらず続けていて、こちらは婦人服の修理ができるほど腕をあげた。
  根を詰めてやると、指先と眼が痛む。 暗い電気の下で細かい仕事をするのを、ミッキーはあまり喜ばなかった。
「昼間はいいけど、夜はあまり長くやらないほうがいいよ。 目に悪い」
  電気は大都会では送電線が張り巡らされて完備していたが、田舎はまだガス灯や石油ランプの残っていた時代だった。 その電気もまだ光が弱く、送電は不安定で、電球はすぐに切れたので、人々はロウソクやランプをを常備していた。
  ジェーンは顔を上げて微笑み、つくろい物をテーブルに置いた。
「そうね。 もう寝ましょう」

  翌日、ミッキーは船に乗った。 また2週間留守にすることになる。 ジェーンは下着やタオルを包みにして持っていき、手を振って船を見送った。 ミッキーが甲板で同僚に押しまくられているのが見えた。
「おい、どこであんなかわいい子見つけた!」
「おまえには似合わねえよ。 美女と野獣ってやつか」
  何を言われても、ミッキーはだらしなくにやにやしているだけで、視線はずっとジェーンに据えられていた。 ジェーンは空になった篭を大きくうち振り、船が航跡を残して港のかなたに消えるまで見送った。


 仕立て屋にドレスを持っていって、もらった工賃を握りしめながら、ジェーンは目抜き通りの時計店を覗いていた。 買うためではない。 新品がいくらぐらいか調べていたのだ。
  「20ドル……高いのね。 飾りがないのに」
  銀色で、ネジに縄目模様が彫りこんである懐中時計が気に入った。 たしか古道具屋のイワンの店に、似たようなのがあったと記憶している。
「5ドル以内で買えるといいんだけど」
  くしゃくしゃの札を汗ばんだ手で握りしめて、ジェーンはイワンの店に急いだ。
  さいわい、質流れの時計は売れ残っていた。 しかも先週より50セント安くなっている。うれしくて、ジェーンの顔がほころんだ。
「3ドルと75セント…… 決めた! 買っちゃおう」

  もちろんミッキーのためだった。 彼は時計を持っていない。 中古で、しかも安物だけど、喜んでもらえると自信があった。
  うきうきと歩いていたジェーンの足が、不意に止まった。 というより、止められた。 何層にも重なった絹のひだが、横になびいてジェーンの粗末な靴を遮った。

  目の前にいたのは、見知らぬ婦人だった。 曇りなのにしゃれたレースの日傘を持ち、粋にかしげた大きな帽子の下から、緑色の眼でジェーンを見据えた。
「あなたがジェーン・ドリューさん?」
  答える代わりに、ジェーンは一歩後ずさった。


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