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20 帰宅



 9月30日、船上ではパーティーたけなわだった。9時半頃、ルイーズは一応ブルーのドレスに着替えて、パーティー会場を覗いてみた。 偶然に救った命がどうしているか、確かめたかったのだ。
  あれ以来身投げはないし、不審な死に方をする客もない。 あの皮肉屋は、自分ではっきり言ったとおり、死ぬ気をなくしたらしいが、この眼で見なければ安心できなかった。
  50分になって、ルイーズはようやく目当ての人物を発見した。 もっとも、最初は人違いかと思った。 華やかな会場で、彼はひときわ輝いて見えたのだ。 それは、硬質なダイヤモンドの輝きだった。
  青年は、体にぴったりしたタキシードを着ていた。 薄暗い甲板での印象では、黒髪に茶色の眼をしているように見えたのだが、実際はこげ茶色の髪で、グレイがかった青い眼だった。 そして、際立った美貌の持ち主でもあった。 アレックスより美しい、とルイーズは認めないわけにはいかなかった。
  それにもかかわらず、青年はやはり、どこかアレックスに似ていた。 背の高さと体つき、それだけではない。 ふとした時の表情や仕草が、どきっとするほどアレックスを思わせるのだ。 胸が苦しくなって、ルイーズは彼から視線をそらした。

 10時5分、ルイーズは人のよさそうな金髪の青年にエスコートされて、彼の単調な声をバンドの音楽と共に聞き流していた。
「それで僕は、アムンゼンって誰だい? って訊いたんです。 笑われました。 有名な探検家なんですってね。 北極だったか、いや南極かな……」
  少し離れたところで、あの青年がシャンパンを飲んでいた。 彼を遠巻きにして、娘たちが溜め息をついている。
「きれいな人ね」
「ローリー、あなた声をかけたら?」
「いやよ、あなたどうぞ」
  青年は見向きもしなかった。 注目の的になっているのに、誰とも踊らない。 それならパーティーなんか出てこなきゃいいのに、とルイーズは不快な気分になった。


 その後は、一度も彼に出会わなかった。 ゆったりした船旅が終り、ニューヨークの灰色に光る港が見えてきたとき、懐かしいと思ってしまった自分に、ルイーズは驚いた。
  港には、母の運転手のセルゲイと、それに家政婦のマルーカが迎えに来ていた。 エイムズと並んでタラップを降りてきたルイーズを見て、セルゲイは微笑して帽子の縁に手をかけた。 マルーカは夢中で喜び、何度もルイーズを抱きしめて繰り返した。
「やっぱりルイーズちゃんにはアメリカが似合ってる。 気取ったイギリスの学校なんか行ったって、ルイーズちゃんの才能を殺しちゃうだけですよ」



21 ジャンヌ



 アレックスは街灯に寄りかかっていた。 吐き気はとっくに収まっていたが、歩き出せるほどの力はまだ戻ってこない。 泥酔状態で、瞼もあがらない。 こんな毎日を過ごしていてはいけないと自分に言い聞かせる心の余裕さえ、今のアレックスには失われていた。
  その、切れた弓のようにたるみきった体に、不意に力が戻ってきたのは、通りの向かい側の路地から、ただならぬ人の声が響いてきたためだった。
「待てよ! ちょっと待てって言ってんだろう!」
「いや! いや!」
  アレックスは素早く行動に移った。 道の角に身を潜め、上着を脱いで手に巻きつけた。 そして、走ってくる二人を待った。
  まず女が飛び出してきて、続けさまに男が、腕を伸ばして追いすがった。 その姿が目に入ると同時に、アレックスのパンチが炸裂し、男は声も立てずに倒れ、動かなくなった。
  アレックスはぐずぐずしていなかった。 驚きで口のきけない女の手を掴むと、素早く表通りに出て、馬車を呼んだ。
  座席に落ち着いたとたん、反動でアレックスは目まいを起こし、女の顔を見る気力をなくしてうずくまってしまった。 頭をかかえてうつむいたアレックスを見て、女は心配そうに身をかがめ、やわらかい声で話しかけた。
「大丈夫ですか?」
  アレックスは辛うじて首を振り、だみ声で返事した。
「大丈夫じゃないが、なんとか生きてるよ」
「どこか怪我でも?」
「いや、ぐでんぐでんなだけ」
  声の調子から見て若い女らしい。 アレックスは眼をつぶりながら、助けてよかったと思った。 この頼りない声なら、とても一人では逃げ切れなかっただろうから。
  御者が振り向いて大声で言った。
「お客さん、どこまで?」
  アレックスは、糊をつけ忘れたワイシャツのように席にのびたまま答えた。
「5番街のホテル・レイモンド」
  それから後は覚えていない。

 目を開くと、いつも通り、靴を脱がされてベッドの中だった。 クラレンスは本当に忠実な男だ。
  朝のこの時間が一番嫌だ。 芋虫にでもなったような惨めな気持ちになる。 アレックスは天井を見つめて、しばらくじっとしていた。
  すると、人が覗き込んだ。 クラレンスだと思って視線を動かしたアレックスは、青白い顔をした娘と眼が合ったので、まばたきを忘れた。
「あれ…… 君は?」
  娘の顔に、戸惑いの色が浮かんだ。
「あの…… ゆうべ助けてくださったでしょう?」
「ゆうべ?」
  少しの間、何も思い出せなかった。 それからちょっとした武勇伝がひらめいて、アレックスは苦笑した。
「ああ、そうだっけ。 君は、ええと……」
「ジャンヌ。 ジャンヌ・ドリューといいます」
  娘は早口で答え、更にいっそう速く続けた。
「事情があって家出したんです。 もう帰れません」
「そう」
  俺と同じだな、と考えながら、ベッドに起き上がろうとして、アレックスはまた頭を抱えた。
「いてっ!」
  ジャンヌは急いで立ち上がり、水差しの水をコップに入れて持ってきた。 アレックスは顔をしかめながら飲んだ。
「まったく地獄だよ、二日酔いは」
  ジャンヌは黙っていた。 固くなって、きちんとベッド脇の椅子に座っている。 アレックスは、痛々しいほど細い首筋を眺めて、心が沈んだ。
「あと5ポンド太らなくちゃな。 俺より酷い顔色だ。 ステーキは好きかい?」
  当惑して、ジャンヌは口ごもった。
「あの……これ以上ご迷惑は……助けてもらったお礼を言いたくて、ここで待っていただけですから」
  アレックスは笑い出したが、とたんに頭に響いて唸り声を上げた。
「心配しないで。 手を出したりしないよ。 女好きじゃないんだよ」
  ただ一人を除いては、と心の中で呟いて、アレックスは顔をそむけた。

 3週間と1日、アレックスはジャンヌを連れて、ニューヨークとその郊外を転々とした。 金はたっぷりとクラレンスが工面してきた。 前は決して受け取らなかった金だが、今のアレックスにはその意地さえ失われていた。
  6度目に出したルイーズへの手紙に返事が返ってこないとわかった日、それはカナダから投函して1ヶ月目だったが、アレツクスはニューヨークに来た。 そして、幾度もグロリア・ケントの家付近をさまよい、クラレンスと再会した。

 それ以来、クラレンスはずっとアレックスに付き切りだ。 あぶなっかしくて見ていられなかったのだろう。
 ルイーズが眼鏡を外して、女優への道を歩み出したと知ってから、アレックスの荒れようは特にひどかった。
  ルイーズは自立した。 自分をもう必要としなくなった。 そう感じたアレックスは、つっかい棒を外されたように壊れてしまったのだった。
  クラレンスは辛抱強く、アレックスが立ち直るのを待っていた。 ジャンヌ・ドリューという身寄りのない美少女に心を移してくれたら、と願う気持ちもあったらしい。 しかし、そうはならなかった。
  アレックスの楽しみは、ただ酔うことだけだった。 ジャンヌを抱くどころか、どうかすると存在さえ忘れた。
  同じように、いつまでたってもジャンヌはアレックスに打ち解けなかった。 話しかけると懸命に答えるのだが、表情が硬く、笑みがない。 怖がられるのが苦手なアレックスは、ジャンヌを持てあまし気味になった。
 
 そして3週間と1日目、ついにその日が来た。 夕方、またこっそりルイーズの姿を見に行ったアレックスが帰ってくると、テーブルの上に短い手紙が載っていた。
『お世話になりました。 感謝の言葉もありません。         ジャンヌ』


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