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19 追放



 その夜は湿っていて底冷えのする気候だった。 アレックスが変装用の服を持ってくる予定なので、ルイーズはときどき窓を開けて暗い庭を眺めたが、そのたびにくしゃみが出て困った。
  やがて空から何かが降りはじめた。 雨ではない。 雪でもない。 あられか、雹〔ヒョウ〕だ!
  ルイーズは気が気でなくなって、画板で頭を覆ってベランダに出ようとした。
  そのとき、下からよじ登ってきたアレックスとぶつかりそうになった。 否も応もない。 ルイーズはとっさにアレックスの手を掴むとフランス窓から引き入れて、しっかりと閉じた。
  部屋の中は薄暗く、暖炉の火だけがゆらめいていた。 窓枠にピシッと雹が当たる音がする。 またピシピシッと続けて聞こえた。
  頭からかぶっていた上着を下ろして、アレックスは大きく息を吐き出した。
「ふうーっ、こんなことになるとはな」
「すごい勢いね」
  窓の外は風が吹き荒れはじめた。 冬の嵐だ。 遠くでかすかにガラスの壊れる音がした。
「きっと温室だわ」
  家全体が風の幕に包まれていた。 不気味なうなりをあげて突風が吹き過ぎる。 思わずルイーズはアレックスの大きな体に身を寄せた。
  とたんに腕を掴まれた。 両腕とも、固くしっかりと。 はっとして上げた顔に、アレックスの顔がシルエットとなって覆いかぶさってきた。

 1時間後、サー・チャールズが屋敷に戻ったときは、風も雹も嘘のように静まって、門の前に吹き寄せられたおびただしい木の枝と、地表に街灯の光を受けて冷たく輝く氷粒のカーペットが残されていた。
  車から降りて慌しく家に入りながら、サー・チャールズは秘書に尋ねた。
「娘たちはさぞ怯えただろう」
「レティーさんはお友達の誕生会に呼ばれて泊りがけで行ってらっしゃいますから、ここにいるのはルイーズさんだけです」
「一人なのか?」
  サー・チャールズは慌てた。 娘ふたりで肩を寄せ合って嵐をしのいだと思っていたのだ。
「なんてことだ。 さぞ不安だっただろう」
  外国から来た娘がかわいそうでならなくなって、サー・チャールズは服を着替えもせず、二段飛びで階段を上がった。
  子供部屋には鍵はない。 だからサー・チャールズが勢いよくノブを回すと、すっと開いた。 ベッドにもぐっているはずの娘に声をかけようとして、サー・チャールズは化石のように立ちすくんだ。
  部屋は薄暗かった。 だが暖炉の前はぼうっと明るく、暖かそうだった。
  そこに、何かが見えた。 白く、しなやかなもの。 陸に上がった人魚のようなその体には、がっしりとした若い腕が巻きついていた。

  すべてがほんの一瞬だった。 まるで写真のように止まって見えたその光景は、一秒後には激しく動き出した。
  まずルイーズが飛び起き、そばに脱ぎ捨てられていた服の山を一抱えにして男に押しつけ、叫んだ。
「逃げて!」
  若い男の体がムチのようにしなって、窓を引き開けるなりベランダから飛び降りた。 サー・チャールズは本能的に後を追おうとしたが、足にからみつかれて動けなくなった。
  ようやくルイーズを振り切ってベランダに飛び出したとき、もうどこにも青年の姿はなかった。
  サー・チャールズは、爪が食い込むほど強く両手を握り、じっと夜の庭に眼を凝らした。
  それからくるりと向きを変え、ルイーズの部屋に戻っていった。
  ルイーズは、ガウンをまとって立っていた。 悪びれた様子はない。 反抗的でもない。 ただまっすぐ立って、じっと父親を見つめていた。
  そのそばに近づくと、サー・チャールズは物も言わず、右手をひるがえして娘の頬を叩いた。 鋭い音が部屋に響いた。
  短く呼吸しながら、サー・チャールズは言った。
「おまえはヴァイオレットにとって、よくない存在だ。 すぐアメリカへ戻れ。 期待していたが、やはり母親の子供だ」
  もの言いたげだったルイーズの口が、きつく閉じた。 眼がかすかに狭まった。
  動かない娘の横を擦り抜けてドアに着いたサー・チャールズは、そこで振り返った。
「何か言うことは?」
  ルイーズは低く答えた。
「ありません」
  サー・チャールズの顔に影が走った。 高い足音を立てて父が去った後、ルイーズは静かに扉を閉めた。

  眠れるわけがなかった。 だから荷造りを始めた。 心の大部分がどうしようもなく痛い。 しかし、残りの一部はほっとしていた。
  アレックス、アレックス! 私はアレックスと結ばれた…… 
「生まれが悪いって? それが私の責任かしら」
  私は望みをかなえただけ。 たぶん母と同じように。 それが不良だと決めつけるなら、母を置き去りにしたあなたはいったい何?
  ルイーズの頬は、打たれた痛みと怒りに震えていた。

  翌朝も怒りは続いていた。 たぶんサー・チャールズも同様だったのだろう。 強ばった冷たい顔で、従僕の一人がルイーズの荷物を車に運び入れるのを見守っていた。
  秘書のグレゴリー・エイムズは鉄仮面のような無表情さで運転席に座っていた。 何を考え、感じているのかまったく読み取れない。 ルイーズが後ろの席に落ち着くと、すぐシルバーゴーストを発車させた。
  玄関の前に立つサー・チャールズの姿が次第に遠ざかっていく。 ルイーズは振り返らなかった。 一言も話を聞こうとしなかった父。 それはすでにルイーズにとって、赤の他人でしかなかった。

  どう手を回したか知らないが、昨夜の出来事からまだ数時間しか経っていないのに、豪華客船フェリシア号の一等切符がエイムズから手渡された。 なかなか手に入らなくて、少なくとも1週間は待たされると評判の乗船券だ。 今更ながら、ルイーズは父の権力の強大さを思い知らされた。
  口を横真一文字に結んで、エイムズはルイーズを船室に案内した。 そして、穏やかな口調で言った。
「私がお供します。 お母様には昨夜電報を打っておきました」
「すみません」
  一言だけ、ルイーズは答えた。 するとエイムズは帽子を取り、思いがけないことをぽつりと言った。
「お気の毒です。 大人の争いごとに巻き込まれて」
  驚いて、ルイーズは顔を上げた。 エイムズの灰色がかった青い眼が、じっと見つめていた。
「大学に行っていただきたかった。 あなたならきっと、実のあることができるでしょうに」
「いいえ、私は……」
  珍しくルイーズを遮って、エイムズは続けた。
  「でもきっと、あなたは成功なさるでしょう。 わたしにはわかります。 周りを気にしないで、自分の道をお行きなさい」


 船上で、エイムズはさりげなく世話を焼いてくれた。 席を取ってくれたり、椅子を引いてくれたり、それは、アメリカから来たときの旅よりよほどやさしく、血の通った親切だった。 肉親以上に、赤の他人の方が大事にしてくれることがあるんだ――ルイーズはいくらか気持ちが慰められるのを感じた。

  それでも夜中の一時過ぎ、ルイーズは寝付かれずにそっと甲板に出た。 アレックスはどうしただろうか。 無事逃げたのはわかっている。 問題はその後だ。
  このままアメリカに帰ってしまったら、当分アレックスに会えない――胸が焼けつくように痛んだ。 彼が今どこにいるかわかったら、絶対についていくんだが。 フジツボのように固くくっついて、絶対離れたりしないんだが……
  甲板は淡い霧に包まれ、5度ぐらいまで気温が下がっていた。銀灰色に輝く鉄柱を通り過ぎたとき、ものに憑かれたような状態をあるものに中断されて、ルイーズは足を止めた。
  先客がいる。 信じられないことに、この凍りつくような甲板に、もうひとつ黒い影がぼんやりと浮かんでいた。
  その影は、甲板の手すりにもたれて海に見入っていた。 当惑したルイーズは、足音をひそめてそっと回れ右しようとしたが、再度立ち止まった。
  様子が変だ。 そう、確かに変なのだ。 影は不意にポケットに手を入れ、何かをしきりにちぎって海に散らし始めた。 何枚も重なった白い紙だ。 きっと手紙だ、とルイーズは思った。
  そのとき、男の体が斜めにかしいで、横顔が見えた。
  瞬間、叫び声を上げそうになって、ルイーズは血がにじむほど唇を噛んだ。 くっきりとした横顔。 鋭い鼻の線と意志の強そうな顎。 そのどれを取ってもルイーズには泣きたいほど懐かしい顔だった。
  何を見てもアレックスに見えてしまうのだろうか。 それとも本当にこの人はアレックスに似ているのか。
  男は紙を捨て終わると、今度は胸ポケットから写真のようなものを出して風に舞わせた。 恋人の写真だ、とルイーズは直感した。 そのとたん、男は不意に手すりから身を乗り出した。
  飛び込むつもりだ! ルイーズは我を忘れた。 そして、夢中で男に駆け寄ると、コートを掴むなり、精一杯の力で引き戻した。
  男は向き直り、懸命に振りほどこうとした。 ルイーズは必死にしがみつきながら、小声で叫んだ。
「やめて! そんなことはやめて!」
「放せ!」
と、男は鋭く言った。 若い声だった。 声の調子までがアレックスに似ているように思えて、ルイーズはますます強く引っぱった。
「もう一度確かめてみて。 失恋じゃないかもしれないわ。 相手の人はあなたの連絡を待っているかも」
  男の体からすっと力が抜けた。 ついで、小刻みに震え出した。 ルイーズは愕然として手を放した。 なんと、男は笑っているのだった。
  ひとしきり笑い終わると、男は手すりから体を離し、ルイーズと正面から向き合った。 月の光が、顔の細部までやわらかく照らし出した。
  それで、アレックスと似ている部分と似ていない部分がはっきりと見えた。
  口元をほとんど動かさずに、青年は硬質な声で言った。
「誰が失恋自殺なんかするか。 女のために死ぬなんて大馬鹿だよ」
  さっとルイーズの頭が冷えた。 なんて奴! それなのにアレックスにちょっと似てるからって、構った私こそ大馬鹿だった――自然に返事もぐんと冷たくなった。
「どんな理由でも、自殺するのは弱虫よ」
  かすかに残っていた微笑の影が、青年の顔から消え失せた。
「子供が偉そうな口きくんじゃないよ。 苦労したことなんかあるのか? 僕はたっぷり苦労してきたんだ。 1つの目的のために何年も努力して、そのあげく、めちゃくちゃにぶち壊されたんだ。 そんな気持ち、味わったことがあるか?」
  今度はルイーズが笑う番だった。 彼女は遠慮なく笑った。 青年はかっとなって拳を固めた。
「何がおかしい!」
  ルイーズは落ち着いて言った。
「大人ぶってるけど、見たところまだ21か2ぐらいじゃない。 これからの年月の方がはるかに長いのに、もう努力をやめちゃったの」
「才能ないと言われてみろよ、自分も。 そうしたらわかるよ」
「そんなの本当かどうかわかりはしないし、それに、同じ仕事で別の才能を必要とするものがいくらもあるわ。 たとえば、演奏者でだめなら指揮者、作曲家、プロデューサー。 ダンサーに向かないなら振付師や音楽コーディネーター、パントマイム。 死に急がないで、やれそうなことを試してみたら?」
  青年は瞬きし、少しの間ルイーズを見つめた。
「音楽関係にくわしいんだな」
  ルイーズはにべもなく答えた。
「知識だけで才能はないわよ。 6歳からピアノ習ってるけど、前に座るたびに頭が痛くなるわ。 あなたが目的に向かってわき目もふらず努力できたなら、才能がないはずないと思う。 楽しくなければ続かないもの」
  青年はまた瞬きした。
「ありがたいね。 お偉い先生が僕の才能を認めてくださったわけだ」
  にくたらしいセリフ、それに気取ったキングズ・イングリッシュだ。 ルイーズは青年にはっきり反感を持った。
「誰にでもその調子なら、憎まれて足を引っ張られたとしたって無理ないわね」
「ゴマをすれっていうのか」
「普通にしたらと言ってるのよ。 話し方が皮肉っぽすぎるわ」
  青年は、中世風に腰をかがめてお辞儀した。 妙にぴたりと合った仕草だった。
「おそれいります、姫君。 でも君もあまり普通には見えないぜ。 ネグリジェにコートを巻きつけただけなんて」
  思わず胸を押さえて、ルイーズは真っ赤になった。 急に寒さが身にしみてきた。
「死にたいほど思いつめた人にしては、よく見てるのね」
「もうその気はなくなったからね。 せっかく肺炎になる危険を冒して助けてくれたのに、申し訳ないじゃないか」
  今度は別の理由で、ルイーズはいっそう赤くなった。
「あなただから特に助けたわけじゃないわ」
  青年は片方の眉を吊り上げてニヤッとした。
「90のじいさんでも助けたかい? めがね嬢?」
  とたんにルイーズは顔を強ばらせて一歩下がった。
「もちろんよ! それに私はめがね嬢じゃないわ。 ルイーズ・バーナビーよ」
  そう言い捨てると、ルイーズはくるりと向きを変えて部屋に帰った。 霧に心まで湿った気分だった。


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