表紙へ
page 10

18 約束


「ねえ」
「うん?」
「創立記念日のパーティーに来ない?」
  アレックスは答えず、ポケットに手を突っ込んだまま下向き加減で歩きつづけた。
  思いがけない出会いから4日後、二人はマーニー邸の裏手にある小川の岸を散歩していた。 ここは、片側が林で、もう一方がゆるい崖になっている上、不便な場所で店がないので、人目につかず、デートにはうってつけだった。
  少しして、やっとアレックスは口を開いた。
「ずいぶん努力して人に合わせてるが、やっぱりパーティーとかは苦手だ。 やめとくよ」
  がっかりして、ルイーズもうつむいてしまった。 二人は疲れた馬のように、首を垂れてしばらくとぼとぼ歩いていた。
  やがてアレックスが顔を上げ、不敵な笑いを浮かべた。
「お嬢様のダンスパーティーなんかよりずっと面白いものがある。 今週のいつか、抜け出せないか?」
  冒険の匂いがする。 とたんにルイーズに元気が戻ってきた。
「そうね……1時間ぐらいなら」
「1時間か」
  アレックスは眉を寄せて考えていた。 それからきらっと眼を輝かせた。
「よし。 明日、服を持ってくる。 4時にここで会おう。 そのとき、いつ抜け出せるか教えてくれ」
「服?」
「うん」
  アレックスの口元が広がって、あけっぴろげな笑いになった。
「変装するのさ。 二人で下町に繰り出そう。 1時間だから、ちょこっとだけな」

 二人でいられる時間はあっという間に過ぎた。 広い芝生を横切って歩きながら、ルイーズの胸はまだ高鳴っていた。

( 変装か。 男の子の格好するのかしら。 でも私はやせてるし、なで肩だから似合わない。 カカシに服がぶらさがってるようになるかも )
  想像するとおかしくて笑い顔になった。
  1階の窓が開いて、レティーが大きく手を振っているのが見えた。
「ルイーズ! ルイーズ! 急いで!」
  なんだろう。 もどかしそうに、レティーは窓から見を乗り出し、口に手を当てて叫んだ。
「お客様! 散歩、少し長いわよ。 お父様が心配してた」
  さっと心に薄雲がかかった。 これから気をつけなくちゃ。 裏庭の外れで男の子と会ってるなんて、もしわかってしまったら…… ルイーズはできるだけ早足になって、裏口から家に飛び込んだ。

  応接間の椅子に座ってくつろいでいたのは、ヒュー・マクレガンだった。 相変わらず、年に似合わぬ落ち着きがある。 ルイーズが服装を整えて部屋に入ると、身軽に立ち上がって微笑した。
「やあ、お招きありがとう」
「いいえ」
  少し固くなって、ルイーズは微笑み返さずに答えた。 窓辺に立っていた父が、よく響く声で言った。
「当日は車で送ってくれるそうだ。 レティーやイアンと一緒に」
  ルイーズは小さくうなずき、ヒューが礼儀正しく立ったままなので、あわてて手近な椅子に腰をおろした。
  とたんに沈黙が支配した。 話すことがない。 アレックスとだと、いつまででも話題が尽きないのに、このきちんとした青年相手では、まったく何を言ったらいいのか見当がつかなかった。
  緊張したときのくせで、膝の上で両手を握り合わせていた。 相手がいらいらするからやめなさいと、母からいつもきつく叱られていたくせだ。 努力して指をほどくと、ルイーズはやっと思いついたことを口にした。
「シティー (ロンドンの一部。 市場経済の中心地) はどうですか?」
「活気がありますよ。 あいかわらず」
  ヒューはシティーにある銀行の行員だ。 その職業にぴったりに見える。 まじめで、使い込みなんかしそうにない。
  低く咳払いして喉の詰まりを晴らしてから、ルイーズはまた努力した。
「今日はいい天気ですね」
  まぶしそうに窓の外を見やって、ヒューはうなずいた。
「ほんとだ。 いつの間にか晴れてきましたね。 僕が来たときにはどんよりしてたが」
「散歩なんかどうだね。 戻ってくるまでにスコーンでも用意させるよ」
  父親の声が割り込んできた。 ルイーズは思わず自分の靴を見た。 アレックスとさんざん歩いてきた後で、膝の下がしびれるほど疲れているのだ。 でももちろん、そんなことは言えない。 仕方なく、ゆっくりと立ち上がった。
 
  外は本当にいい天気だった。 剃刀の刃でなでられるようなひやっとする空気だが、陽射しはやわらかい。 ヒューは、いったんかぶった帽子を脱いで、面長な整った顔を日光にさらした。
「いつも建物の中で働いてると、昼間に日に当たることが少なくなって」
「そうですね」
  帽子を手の中で回しながら、ヒューが不意に尋ねた。
「退屈ですか?」
  ぎょっとして、ルイーズは思わず頭ひとつ分ぐらい高いヒューの顔を斜めに見上げた。
「いえ、あの、ちょっと緊張してますけど」
「僕もです」
  そう言って、ヒューは微笑んだ。 アレックスの不敵な笑顔とは違う、とまどったような微笑。 でも感じはよかった。
「こういう男なんです。 ずっと固いとか面白くないとか言われ通しです」
  ふと、ルイーズの心の中で固い結びコブが1つほどけた。 なんだ、この人、私と同じだ。
「私も。 かちかちになって、声まで出なくなって」
「そう。 そうなりますね」
  青年は1つ大きく息をついた。
「弟は違うんです。 誰とでも仲よくなれる。 正直いって、うらやましいです」
「弟さんって、イアンという人ですか?」
「そうです。 あいつは明るい。 ヴァイオレットさんとでさえ、話ができる」
  ヴァイオレットさん? ああ、レティーのことね――しょっちゅうおしゃべりしている妹を無口と言われて、ルイーズは眼を見張った。
「レティーはあなたとは話しませんか?」
  ヒューは苦笑した。
「あのお嬢さんの声を聞いたことのある人のほうが少ないんじゃないかな」
  はあ? ルイーズの足が止まりそうになった。 ヒューも速度を下げて、ほとんど足を止めかけながら、言葉を続けた。
「だから驚いたんですよ、この間は。 一緒にテニスしたでしょう? 考えられなかった。 それに、あんなに楽しそうにあなたに話しかけて。 サー・チャールズはずいぶんあなたに感謝なさってるでしょうね」
  何のことだ。 ルイーズはあっけに取られて、機械的にヒューと並んで歩きながら、首をかしげていた。
  ヒューは静かに続けた。
「この間、エディンバラに帰省して、そのことを弟に話したんです。 びっくりしてね。 ぜひあなたに会いたいって。 今度のパーティーを楽しみにしてましたよ」

  屋敷を一回りして戻ると、お茶の支度ができていた。 晴れが続いているので庭にテーブルを出し、茶色の服に着替えたレティーが参加して、けっこう楽しい集いになった。
  どうもレティーがイアンという青年に好意を持っているらしいと気づいて、ルイーズはさりげなく話をそっちへ動かしていった。
「エディンバラって、どんなところですか? まだ行ったことがなくて」
「いいところですよ。 故郷だから言うわけじゃなくて、古い町並みが落ち着いているし、人の心もおだやかです。 こっちにいると懐かしいですよ」
「弟さんはずっとエディンバラに?」
「ええ、大学もあっちです。 いたずらっ子でね、ロンドンに出てきたら悪さしそうだって、母が手放さないんです」
「あなたに似てますか?」
「どうかな。 髪の色は同じですが」
  我慢できなくなったらしい。 レティーが細い声で口を挟んだ。
「眼が緑なの。 光が当たるとエメラルドみたいなの」
  アレックスの濃紺の瞳に日光が反射するとサファイアそっくりになる――不意にルイーズは胸を締めつけられるのを感じた。 甘く苦しいこの痛み…… 視線がテーブルに吸い寄せられたままのルイーズを、ヒューがじっと眺めた。
「どうしました?」
  はっと我に返って、ルイーズは気弱く微笑んだ。
「どんな眼かなと想像して」
「きれいよ!」
  レティーが力説した。
  そのとき、扉が開く音がして、室内からサー・チャールズが出てきた。 正装している。 また外出するらしかった。
「バーナードさんの家に行ってくる」
「いってらっしゃい」
  レティーがおとなしく言った。 サー・チャールズはもう一人の娘に視線を移し、おだやかに言葉を継いだ。
「その服、似合うよ。 それじゃ、ヒュー、ゆっくりしていってくれ」
  ヒューは立ち上がって挨拶した。
「6時には帰ります」

  じわっと暖かいものが心を包んだ。 父親にほめられたのは初めてだった。 やっとこの家の一員になれたんだろうか――しっとりとうまく出来たスコーンをつまみながら、ルイーズは幸せを感じていた。 まだ純粋な緑色の眼をした人を見たことがない。 レティー推薦のイアンに、ぜひ会ってみたかった。 
  そのとき、ルイーズには何の予感もなかった。 イアン・マクレガンに会う日が永遠に来ないことなど、まったく知らずにいた。
 

表紙 目次前頁 次頁
Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送