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16 偶然の再会


 1913年の1月は静かに過ぎていった。 母からは、思ったとおり何の連絡もない。 グロリア・ケントは娘を家から出して、せいせいしているのかもしれなかった。
  ルイーズは一年遅れでレティーと同じ大学準備校に入ることになり、準備で不安と期待の入り混じった日々を送っていた。 レティーがいろいろ助言をしてくれる。 机が小さいからノートは分厚くして下敷き代わりに使えたほうがいいとか、お作法の先生は巨大なので体重の話は禁句だとか。 建て増しが続いて迷路のようになった本館の見取り図まで詳しく描いてくれた。
  ルイーズは話半分で聞いていた。 一ヶ月同じ家に住んでみて、たしかに思う。 レティーは気立てのいい子らしい。 親切だし、、金持ち娘にしてはよく気がつく。
  ただし、完全に信用できるかというと、そこまで楽天的ではなかった。 なにしろ相手は正妻の子、自分は一年年上とはいえ愛人の子供なのだ。 やさしくされるほうが不思議だった。 これで学校に行ったら理科室のはずがトイレだったなんてことになっても驚かない覚悟は出来ていた。
  たしかにいざ授業を受けてみると、そこはさまざまな点でアメリカとは違っていた。 数学や化学などは楽々とついていけたが、ラテン語には戸惑った。
   図書館で辞書と首っ引きになっていると、いつの間にかレティーが横に立ってかがみこんできた。
  「Qui parcit malis, nocet bonis. か。 quiが関係代名詞のwho、男性形ね。 ええと、parcitはparcoの三人称単数現在」
  「じゃあ、ええと、《悪人を許す者は善人に害をなす》かな?」
  「そうそう!」
  レティーは本当にうれしそうに息をはずませた。

 レティーがいろいろと助けてくれなかったら、最初はずいぶん苦労することになっただろう。 驚いたことに、レティーの親切は本物だった。 こんなに気立てのいい子に、ルイーズはこれまで会ったことがなかった。
  これで父とうまくいけば、イギリスでの生活はどんなに楽しかっただろう。 しかし、ルイーズはほとんど父と話さなかった。 話すチャンスがなかったと言っていいかもしれない。 サー・チャールズはいつも忙しそうで、議場に行く以外にも――彼は上院議員だった――パーティーや知り合いの結婚式、葬式、狩猟にダンスと、席があたたまる暇がないぐらいだった。
  ここまで父親が留守がちだから、レティーはルイーズになついたのだろう。 彼女も寂しかったのだ。
  二人は広い家で寄り添って暮らした。 ルイーズが新しいしおりの折り方を教えると、レティーはハンカチにイニシャルを刺繍する方法を手ほどきしてくれた。
 屋敷の中は困るほど広かったが、たまには小さい部屋もある。 1階の外れにある小部屋にはかわいいストーブが置いてあって、その前に座りこんで長い間、二人はとりとめのない話にふけった。 
  雑談には役に立つ情報があちこちに隠れている。 ルイーズはさりげない顔で、でもよく気を入れて聴いた。 この子には警戒心はないのか、と思えるほどレティーは開けっぴろげで、学校のこと、クラスの友達のこと、ルイーズがまだ一人も会ったことのない親戚のだれかれのこと、思いつくとすぐに話してくれた。
  青春の入口に立っているから、当然恋の話も出た。 ずっと女子校に通っているレティーは、ほほえましいほど純な夢を心にえがいていた。
「白いコテージに住みたいの。 こんな広いだけの家じゃなく。 結婚相手はくるまの運転ができる人がいいな。 友達のローリーのお兄さんが運転うまいのよ。 くるま壊れても直せるんだって。 乗せてもらったことあるんだけど、オーブンカーだったから鼻の穴まで真っ黒になっちゃった」
「郊外はまだ砂利道だもんね」
「アメリカは全部舗装されてるの?」
  ルイーズは笑って、ぶんぶんと頭を振った。
「そんなこと、ないよ。 街をちょっと出ると埃だらけの地面があるだけ」
「でもニューヨークの盛り場はすごいんでしょう? 高い建物だらけで、窓ガラスに光が反射してまぶしいって友達が」
「たしかににぎやかだけど、人が追われるように歩いてて、通るのが大変。 子供なんかはじき飛ばされちゃう」
「ああ、そうかもね」
「それにね、ロンドンはわりと落ち着いてるけど、ニューヨークは朝からうるさい。 なんでかなと思ったら、徹夜で朝帰りする人たちが多いの。 それに朝早く魚や肉を店に届ける人とか、新聞を仕入れに行く人とかいて、一日中ざわざわしてる感じ」
「そのざわざわが懐かしくない?」
  一瞬、ルイーズは考えた。
「うーん……あんまり」
  だってニューヨークには、もう会いたい人がいないもの、と心の隅でつぶやいて、ルイーズは妹にほほえんだ。
「こっちの方がいいかもしれない。 静かで、よく勉強できる」
「そこがすごいのよね」
  半ばあきれて、レティーは巻き毛の頭を振った。
「あなたって真面目。 機関車みたいにもりもりノート取って、予習もきちんとして」
「他にすることないから」
「お茶の時間でございます」
  静かな冷たい声がして、二人は一緒に振り向いた。 女中頭のブレイドさんが両手を握り合わせて戸口から見ている。 言葉遣いこそていねいだが、子供なんか、とバカにしている態度だった。
  ふたりは顔を見合わせ、急いで立ち上がった。
 ルイーズは少しぎこちなく歩き出したが、昔から知っていて何の遠慮もないレティーは、通りすがりにパッとブレイドさんのエプロンの紐を引っ張ってほどいていった。
  背中に手を回して結びながら、ブレイド夫人はいまいましそうにつぶやいた。
「あのアメリカ娘が来てから、レティーさんはすっかり柄が悪くなったわ」


 2月の初めにスコットランドに出かけたサー・チャールズは、ひとりの青年を連れて戻ってきた。 濃い赤毛に青緑色の眼をしたその青年は、ヒュー・マクレガンと名乗った。
「はじめまして」
  そう礼儀正しくつぶやいて、そっとルイーズと握手したヒューの手は、乾いていてあたたかかった。 レティーは彼と知り合いで、昼食の後めずらしくはしゃいでテニスコートに連れ出した。
「ルイーズもやりましょうよ。 ね?」
「私は……ダブルスやるには一人足りないし」
「それならわたしが入ろう」
  不意に背後から声がしたので、ルイーズは驚いて振り返った。
  そこにいたのはサー・チャールズだった。 彼が運動万能で、クリケットやポロが上手なのは知っていたが、テニスができるとは知らなかった。 しかも娘たちと一緒にやりたがるとは。 こんなことはルイーズが来てから初めてだった。
  結局、レティーが父親と同じ組になりたいと言ったので、ルイーズは初対面のヒューと組むことになってしまった。 4人はおもいおもいに軽いシャツに着替え、よく晴れた空の下でテニスを始めた。
「フィフティーン・ラブ」
「サーティー・ラブ」
「フォーティー・フィフティーン」
  最初はレティー組が優勢だった。 だがヒューがボレーを決めたところから、ルイーズ組がリードを取りはじめ、最後は6ゲーム対4ゲームで勝利した。
  レティーは肩で息をしながら芝生に座りこんだ。
「うー、久しぶりに本気出したのに! ヒューがうまいのは知ってたけど、ルイーズまでこんなに強いなんて!」
  そばに腰を下ろしたルイーズはちょっと微笑んだ。 その微笑には寂しさがまじっていた。
  授業をさぼってばかりいたというアレックスが唯一まじめにやっていたのがテニスだと聞いて、ダンス・レッスンの合間に密かに練習していたのだ。 いつか彼とダブルスを組むのが夢だった。 だがその夢は、いつかなうのだろうか……


 2月の末に建校記念日があって、午餐会をやるという通知が渡された。 毎年の定例行事で、その後にはちょっとしたダンスパーティーをする。 女子校だがその日には知り合いの男性を呼んでいい――というより、呼んでほしい――ことになっていた。
  14,5から18歳ぐらいまでの少女たちが通っている学校だから、婚約している生徒もいた。 そういう子は堂々と相手を呼ぶし、いない子たちは、親戚や兄弟を招待する。 同じ階級の子供たちなので親公認で、このパーティーで恋が生まれることも珍しくなかった。
   だから記念日は生徒たちにとって大っぴらに男の子と付き合える数少ない日で、ずいぶん前から楽しみにされていた。 レティーは、ヒューの弟でケンブリッジに行っているイアンを呼ぶとはしゃいでいる。 話の流れで、他に男の知り合いがいるはずのないルイーズは、ヒューを招待することになってしまった。

 みんな同じ・・・夜の窓辺に肘をついて、ルイーズはぼんやり暗い空を眺めていた。 ニューヨークを出れば新しい展開があるかと期待していたのに、父も母と同じだった。 娘の話など一言も聞かず、勝手に将来のレールを敷いている。
  父がなぜヒューを連れてきたか、ルイーズにはよくわかっていた。 おとといの出会いは、お見合いだったのだ。 エディンパラ郊外の大地主だというヒューの家系は、ルイーズにはもったいないほどのものだった。 父は父なりに娘の幸せを考えているらしい。
  窓枠に載せた手に顎を置いて、ルイーズは聞こえないほどの吐息をもらした。
(だいじょうぶ。 ヒューは私を気に入ったようには見えなかった。 きっと向こうが断ってくれるはず)

  パーティーにはドレスが必要だ。 ヒューの叔母にあたるマクファーソン夫人が付き添いになって、ルイーズとレティーをピカデリ・サーカス近くの洋裁店に連れていった。
「ここは場所がちょっと悪いぶん、いい仕立てで安くしてくれるのよ」
  少女二人を注意深くながめて、夫人は考え込んだ。
「そうねえ…… レティーは眼が薄い青だからピンクが似合いそう。 ルイーズは」
  首の後ろでおとなしくまとめてある栗色の髪をほどいて肩にふわっと下げると、夫人はうなずいた。
「このほうがずっといい。 なぜ美人なのに隠すの?」
  はっとして、ルイーズは眼鏡の下から年長の夫人を見返した。 夫人は軽くウィンクした。
「私ね、アメリカ人てみんな元気がいいと思っていたのよ。 でもあなたはとても物静かね。 それに優雅。 あなたには青、緑、白、クリーム色、なんでも似合いそうね。 私のお勧めは、赤よ」
  ルイーズは思わず一歩引いた。 赤なんてこれまで着たことがない。 母のグロリアにぴったりの色なので、最初から考えに入っていなかった。 母とルイーズとではまったくタイプが違うからだ。
「派手な赤じゃなくて、黒味がかったビロードのような色。 絶対似合うわ」

  張り切ったマクファーソン夫人は、二人にそれぞれ二着ずつ予約させてしまった。
「だってこれからはパーティーの機会が増えるし、そのたびに作っていたら大変だもの」
  たしかにもっともな意見だが、おかげで若い二人は生地選びや裁寸に追われた。
  しかも、それだけでは終わらなかった。 ドレスに合った靴に帽子、手袋にバッグと買わなければならない。 アメリカでは忘れられた存在で、質素な服しか持っていなかったルイーズは、値段を聞いてドルに換算するたびに、気が重くなった。
  夫人のおかかえ運転手が、新車のシルヴァーゴーストにせっせと荷物を運び入れた。 夫人は任せきりで涼しい顔をしていたが、そのうち不意に思いついて少女たちを誘った。
「そうだ。 この近くにいい喫茶室があるの。 おいしいダージリンとクッキーを食べていかない?」

  夫人のこのちょっとした道草がなかったら、そのときは永遠に来なかったかもしれない、と、後でルイーズは何度も思った。
  だが当時は、よけいなことを、という気持ちのほうが強かった。 喫茶室もいいが、早く家に帰って、痛む足をお湯につけたかった。 あまり歩き回ったので、靴擦れになりそうだったのだ。 レティーもそう思っているらしく、車のほうをちらちら眺めながら、足を小刻みに踏み替えていた。
  だが夫人は陽気に二人をせき立てて歩かせた。
「ほら、あそこよ。 あのホテルの横」
  しかたなく石畳の上をぼそぼそ歩きながら、何気なく横を見たルイーズの視線が、突然一点に釘付けとなった。
  ホテルの回転ドアの前で、ドアマンが客を誘導していた。 ひとりひとりに丁寧に帽子を取って挨拶し、荷物をボーイにてきぱきと振り分けている。 すらっとした姿で機敏に動くのがとても印象的で、ロビーに入る前に立ち止まって見とれている婦人客までいた。
  その客をやさしく促して中に入れた後、一礼して顔をあげたとたん、ドアマンの表情がさっと変わった。
  ルイーズは彼をひたすら見つめつづけていた。 彼の方も眼を見開いたまま、ルイーズにじっと視線をすえていた。 ルイーズが歩きつづけているので、二人の距離はすぐに縮まり、誘導用のホイッスルを持ったままの男の手がかすかに震えているのが見えるまでになった。
  ルイーズが磁石に引かれるようにまっすぐホテルの方角に歩きかけたので、レティーと話していたマクファーソン夫人があわてて腕を引いた。
「そっちじゃないわ。 こっち、こっち!」
  強引に引っ張られていくルイーズは、喫茶室のドアをくぐる前に確かに見た。 ドアマンの表情がふっと崩れ、やさしい笑顔が彼女に投げかけられたのを。

  喫茶室で何を飲み、何を食べたか、ルイーズはまったく覚えていなかった。 ただ機械的に出されたものを口に運んでいただけで、心はすべて窓の外に飛んでいた。
  アレックス、アレックス! まさかロンドンで、アレックスに会えるなんで……!

  半時間ほど経って喫茶室を出たとき、ルイーズは真っ先にホテルの玄関を見た。 しかしドアの前に立っていたのはずんぐりした金髪の青年だった。 午後から夜にかけての当番と交代したらしい。 ルイーズは一瞬ひどくがっかりしたが、すぐに気を取り直した。 アレックスの居場所はもうわかったのだ。 会いたければ、いつでも会える!


17 夜の庭で


 その晩、明日の予習を終えた後、ルイーズはいつものように窓にもたれて空を見上げた。
  これまでは、この星のもと、どこかの空の下にきっと彼がいると思って一生懸命願いをかけていた。 だが、これからは同じ町。 まったく同じ星を見ることができる。 アレックスが元気そうで、見違えるようにいきいきと働いていたので、ルイーズは本当に嬉しかった。
  そのとき、窓の下でカサッという音がした。 ほんのかすかな、聞き取れないほどの音だったが、風がなく、とても静かな夜だったので、ルイーズは何かの気配に気づいた。
  恐れを感じなかったのは、予感がしたせいかもしれない。 身を乗り出して見下ろすと、大きな石楠花の茂みの横に、ぼんやりと白い顔が浮かんでいた。
  二人はどちらも一言も発しなかった。 ルイーズは手を使って素早く、下に降りると合図し、相手がうなずくのを見届けてから、足音を忍ばせて階段を下りた。
  夜の11時過ぎだった。 使用人たちは寝ていた。 チャールズは友人の招待でヨークシャーに出かけている。 そしてレティーは自分の部屋でぐっすり眠っているはずだ。
  裏口から出て広い庭を回っていくと、石楠花の木の下に黒っぽい影が立っているのが見えた。 そして、ルイーズが目に入ったとたん、両腕を大きく差し出した。
  二人はあっという間に、お互いの腕にすっぽりはまり込んだ。 小さなささやきが夜の空気を満たした。
「アレックス!」
「ルイーズ!」
  ふるえる脚をもてあましながら、ルイーズは固くアレックスの胴にしがみついた。
「驚いた! 自分の目が信じられなかったわ。 あなたが同じロンドンにいたなんて」
  手を固くつないだまま、二人は池近くのベンチに座って、改めて肩を寄せ合った。
「一ヶ月ぐらい前に来たんだ。 こうやって君に会えるなんて、本当に……嘘みたいだよ」
「変わったわね、アレックス」
「そうか?」
  首をかしげるようにして、アレックスは月明かりに照らされたルイーズの顔をのぞきこんだ。
「どんなふうに?」
「きりっとして、愛想がよくなって。 まるで別人」
「ああ……」
  アレックスは苦笑いした。
「仕事だから。 おとなになるんだよ、俺だって」
  おとな…… 胸にこたえる言葉だった。 彼はもう社会人で立派に働いている。 だがルイーズはまだ学生の身分で、これからもしばらく親がかりの毎日を送らなければならない。
  不意に不安に包まれて、ルイーズはアレックスの大きな手をつかんだ。
「あんまりおとなにならないで。 別の世界に行っちゃわないで」
「行かないよ」
  笑いながら、アレックスはポンポンとルイーズの頭を軽く叩いた。
「めがねちゃんは俺の友達。 たぶんただ一人の親友だから」
「私は頼りないけど、ずっとそう思っていてね」
  ルイーズは懸命に頼んだ。 寝る前なので三つ編みにしていた髪を手のひらに載せて、アレックスはぽつりと尋ねた。
「どうしてイギリスへ?」
  ルイーズはうつむき加減になった。
「父が……実の父が、私を引き取ったの」
「マーニー卿?」
「そう。 よくここがわかったわね」
  アレックスは三つ編みを丸めて団子を作った。
  「実は、君たちがあの《コージー・ハイダウェイ》って店に入ってる間に同僚に頼んで仕事代わってもらったんだ。 そして君たちの後をつけたってわけ」
  それでわかった。 後で店から出たときに、彼の姿がなかった理由が。 ルイーズはうれしくなって微笑んだ。
「だから今夜来てくれたんだ」
「うん」
  にじんだように光る月を、雲のかけらが流れ過ぎていった。 ガウン一枚で出てきたルイーズが小さくくしゃみをした。 すぐにアレックスがハーフコートのボタンを全開にし、ルイーズを抱きこんだ。
「風邪を引かせちゃ大変だ。 ロンドンは寒いし、空気が悪いな」
  ルイーズはうなずいた。
「特に冬は。 暖房の煙のせいね」
「美術館はさすがに凄いけどな。 ときどき行って絵を見るんだ。 ルーベンス、カルヴァジオ、何でもありって感じでさ、楽しいよ」
  ルイーズは眼を輝かせて座りなおした。
「今度私も連れてって!」
「そうだな、でも……」
「そうね」
  ルイーズは少し落ち込んだ。
「アメリカ以上に付き添いがいないと外出しにくいわね」
「何か手を考えようぜ」
  いたずらっぽくアレックスが持ちかけた。
「君の頭脳と俺の実行力でさ」

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