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15 ロンドンへ


 いつもより早起きして3日間、郵便受けを誰よりも早く見に行っていた おかげで、ルイーズはアレックスのクリスマスカードを確保することが できた。 最近、母は気まぐれに、ルイーズ宛の手紙を勝手に開封したり する。 封筒に差出人の名前がないカードなど、捨てられかねなかった。
  投函先の消印を調べて、ルイーズは驚いた。
「デリー?」
  それってインドじゃないか。 姿を消してから3ヵ月半、アレックスはずい ぶん遠くへ行ってしまっていた。

 朝の6時半だというのに、階段の上から母の声がする。 早めの打ち 合わせでもあるのだろうか、と思っていると、象牙色のガウンをはためかせて、 踊り場から降りてくるのが見えた。
  ルイーズは、メイクしていない母の素顔が好きだった。 まだ30代 なので艶と張りがある。 ルージュの必要がないほど唇の色がいい。 ぱっと 恋愛すればいいのに、とルイーズは素顔の母を見るたびに思った。
  ルイーズが目に入ると、いつも通りグロリアの表情が硬くなった。
「もう起きてたの。 学校へ行く癖が抜けないようね」
  春に高校を卒業し、今では午後に演劇学校に通っているだけだ。 ルイーズが 大学に行くのを、母は許してくれなかった。
 でも、この日の母は、少しだけ違っていた。 猫のような大きな眼で 娘を正面から眺め、さりげなく提案した。
「今夜マッキーの指揮するクリスマス・コンサートがあるの。 一緒に 行きましょう」
  ルイーズはたじろいだ。 もう何年も、母と外出したことはない。 それに、 そんな晴れがましい席に合った服を持っているだろうか。
  ルイーズがまったく喜ばず、むしろ迷惑そうなのを見て取って、グロリアの 表情が険しくなった。
「ほんと可愛げのない子ね。 きれいじゃない、愛敬がない、何の……」
「取りえもないのよね」
  初めて言い返されて、グロリアはたじろいだ。 頬にぴりっと震えが走った。
  ルイーズはカードを服のポケットに入れ、感情のない眼で母親を見返した。
「今夜は読みたい本があるから、行かないわ」
「勝手にしなさい!」
  二人は階段の下ですれ違った。 娘は二階へ、母は居間へと。

 コンサートの5日後、12月28日という押し詰まったときに、 一人の男がグロリア・ケント邸を訪問した。 物静かで意志の強そうな その男は、チャールズ・マーニー卿の秘書と名乗り、ルイーズを認知して スコットランドに引き取りたいと申し出た。
  ゆったりと椅子にもたれたグロリアは、刃物のような声で口上をさえ ぎった。
「何の権利があって、そんなことを言いに来たの?」
「お嬢様の血を分けた父親としての権利です」
  グロリアは唇だけで笑った。 凄みのある微笑だった。
「サー・チャールズの血が入っていると、どうやって証明するの? 私は 女優よ。 イギリス貴族の方に言わせると、娼婦の代名詞だそうじゃないの」
「それは思い過ごしです」
  使者のグレゴリー・エイムズは軽く受け流した。
「お嬢様は、サー・チャールズの親族の方にそっくりだとのことです。  なんでも大変優秀な成績だそうで。 マダムは高校で辞めさせて後を 継がせたいお気持ちのようですが、サー・チャールズは別の計画をお持ち です。 ぜひイギリスで高等教育を受けさせて、才能を伸ばしてやりたい とおっしゃいました」
「あの子の親権を持つのは私です」
  ぴしゃりと言い切ると、グロリアは立ち上がった。
「ではこれで。 台本に目を通さなければなりませんから」
「お嬢様のご意見はお訊きにならないのですか?」
「今言ったでしょう? あの子の親は私ですよ。 私の意見はあの子の意見です」
  うやうやしく席を立ちながら、エイムズは静かに尋ねた。
「なぜ《あの子》としかおっしゃらないのですか? 名前を口になさらないと、 犬か猫のことを話題にしているようで落ち着きませんが」
  初めてグロリアの表情が乱れを見せた。 エイムズのポーカーフェイスを 睨みつけて、グロリアは声高に言い放った。
「犬の子のように簡単に引き取りに来たのはそちらでしょう?  右から左へわが子を渡せる親があったら、お目にかかりたいわ」
「犬の子でないからこそ、ご本人の気持ちをうかがいたいのです。  どうかお願いいたします」
  グロリアは瞬時眼をつぶった。 それから、波立った声で呼んだ。
「マルーカ、マルーカ! ルイーズを連れてきて!」

 紺色のセーターに灰色のプリーツスカートを着たルイーズは、 か細く寂しげに見えた。 エイムズはルイーズを子ども扱いせず、 丁重に話しかけた。
「お父上の代理として参りました。 エイムズと申します」
  ルイーズの顔が紅潮した。 父・・・・思いもかけない事態だった。
「サー・チャールズは、お嬢様を正式なお子さまとして英国に迎え、 半年ほど予備校に通った後、お望みならオックスフォードのマーセデス・ カレッジに進ませたいとのお考えをお持ちです。 いかがですか?」
  ルイーズの口がかすかに開いた。 マーニー卿令嬢・・・・一年前なら、 いや、半年前でも、ルイーズはこの申し出に見向きもしなかっただろう。  だが、アレックスのキスを受けたとき、世界はがらっとその色を変えた。  ルイーズは、アレックスにふさわしい娘になりたかった。 大富豪 オーウェル家の嫡男としてアレックスがニューヨークに戻ってきたとき、 不器量な《女優の隠し子》のままでいたくはなかった。
  ルイーズは息を吸い込み、にごった声で答えた。
「すてきだと思います」
  エイムズは素早くグロリアを見た。 だが、母親の美しい顔は仮面の ようで、まったく心のうちを見せなかった。
  衣装の襞を念入りに整えてから、グロリアは口を開いた。
「それなら、行きなさい」

 港に着いたのは夕方だった。 エイムズの世話でロールスロイスに 乗り込みながら、ルイーズはかすかな後悔の念にさいなまれていた。  知らない国、知らない人々、そして、会ったことのない実の父。  初対面の人には必ず人見知りするルイーズは、どうやって父に 挨拶すればいいか、今から頭が痛かった。
  車はやがて、ロンドンの、思ったより近代的な建物の前に停車した。  ルイーズは眼鏡をかけなおし、服装を整えて、座り皺を気にしながら 車から降りた。
  入口に出迎えたのは、白くかわいいキャップを頭に載せて 、黒い制服に身を包んだ、ルイーズとあまり年の変わらない 小間使いだった。
「いらっしゃいませ。 こちらが書斎です」
  そっとコートを脱いで渡してから、ルイーズは黙々と、愛らしい 小間使いの後をついて廊下を歩いた。
  小間使いが重々しいドアをノックすると、低い声が返事した。
「お入り」
  ルイーズは震える息を吸い込んで、中に入った。
  机の向こうに、背の高い紳士が立っていた。 茶色の髪に、濃い紫の眼。  金褐色の髪で青い眼のルイーズには似ていなかった。 本当に、この 厳しい顔をした人が父親なのだろうか・・・・ルイーズはひどく気後れして、 入口近くで止まってしまった。
  サー・チャールズは、ルイーズに眼を据えたまま、短く言った。
「よく来たね」
  ルイーズは口がきけず、小さく頭を下げた。 サー・チャールズの眉が いくらかしかめられた。
「セント・ミカエルにはもう手続した。 いつでも入学できるが……」
「すぐ行きます」
  これ以上気詰まりな対面を続けたくなくて、ルイーズは素早く口を 挟んだ。 サー・チャールズの額の皺が、いっそう深くなった。
「そうか。 それでは……ヴァイオレットに部屋まで案内させよう。  そして、明日にでも二人で学校に行くといい」
「わかりました、ありがとうございます」
  そう言いながら、ルイーズの足はもうドアに向かって後ずさりして いた。 サー・チャールズは、机の上に置いてあるベルを、 やや乱暴に鳴らした。 すると、さっきの小間使いがあっという間に 現れた。
「はい、旦那様」
「ヴァイオレットを呼びなさい」
「かしこまりました」
  ルイーズはうつむいた。 すると足元が自然に目に入った。 なんと、 靴の前が泥だらけになっている。 港のどこかでついたらしい。  当惑して、ルイーズは顔を赤らめた。
  やがて軽やかな足音がして、細い声が耳に飛び込んできた。
「お父様、お呼び?」
「ああ、レティー、こちらがおまえのお姉さんにあたる、ルイーズだ」
  おそるおそるルイーズは顔を上げた。 すると、きゃしゃな巻き毛の 少女が目に入った。 背丈はほぼルイーズと同じぐらいだが、ほっそり したルイーズよりまた一段とやせていて、病身に見えるぐらいだった。
  囁きに近い声で、ヴァイオレットはルイーズを促した。
「ようこそ。 お部屋に案内します」
  少女の後をついて歩きながら、ルイーズはどう挨拶すればいいか 悩んでいた。
  だが、広い階段の下にたどり着いたとたん、ヴァイオレットの方から 不意に口を切った。
「あのね、私のこと、レティーって呼んでね」
  ルイーズははっとして、反射的にレティーの顔を見つめた。  驚いたことに、レティーは警戒心のかけらもない無邪気な表情で、 にこにこしていた。
「想像してたとおり。 ね、手つないでいい?」
  戸惑いながら、ルイーズはそっとレティーが差し出した手を取った。  細いが暖かい手だった。 ふたりはしっかり手を握り合って、 階段を上がっていった。

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